「イギリスは、日本とちがうのよ、お父様。共産党だって、ちゃんと公然の政党よ。新聞も出ているし、選挙にも立っているんですもの。――コンミュニストだったにしろ大威張りなわけなのよ。――わたしはそうじゃないけれどもさ……」
多計代やつや子より一足さきに、泰造が伸子を散歩につれ出したわけがわかった。
喫茶店の派手な日除傘が見える道まで来たとき、泰造は、ちょいと足をとめるようにした。
「お前に、佃君が亡くなったことを、しらせたっけか」
「――いいえ」
佃が死んだ――しずかな声で、いいえと云った伸子の、うすい絹服をつけた体の外側にだけ八月末のロンドンの暑さはのこって、おなかのしんをすーとつめたいものがはしった。――佃が死んだ――
「遺児の育英資金を募集しているんでね、立つ前に、応分のことをして来た。きょう、事務所からよこした書類の中に受取がはいって来たんで思い出したんだが」
「いつごろのこと?」
「あれは――もうごたごたしはじめていたときだから四月ごろだったかな。結核だ。三人遺児があって、まだどれも小さいらしいから、夫人は気の毒だ」
伸子が佃とわかれてから五年たっていた。三人の幼児とのこされた夫人というひとは、佃に同情して、我ままだった伸子さんに代って、佃をきっと幸福にして上げるといって彼と結婚したひとだった。どこかの学校で教鞭をとっているひとのようにもきいた。
「何でも、子供がみんな弱いんで、沼津とかへ移ったということだった」
佃との生活にどうしても馴れることができないで、伸子が逃げ出してしまったとき、佃のアメリカ時代からの友人が、こんど結婚したら女が何と云っても、子供を生ませなければいけない、と忠告したということも、伸子はきいていた。佃が自分で、そういう風なことを伸子に云ったような記憶もある。四つか三つをかしらに、三人のよわい子供をこれから育ててゆく夫人――。
日ごろ、伸子は佃のことにかかわったところのない心持で生活していた。日本にいたころ、佃の住居のある町を電車で通ったりするとき、そこいらの角から不意に佃があらわれはしまいかと思って、身のひきしまる思いだったのは、別れて当座のことだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立って来る前に、渋谷からタクシーで、佃の住んでいる町の角々に目をとめて、冷たいいとわしさで通りすぎてから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でも、伸子の心に悔恨の感情は湧いたことがなかった。不思議に佃の夢を見なかった。伸子は、佃が次の家庭をもっていて、彼としての満足のうちに生活していることを、よかったと思っていたのだった。そういう佃の幸福は、佃のものであった。佃の幸福の内容が伸子の感じる幸福感とちがう性質のものであるからこそ、伸子は彼といられなかった。羨しさとは、自分にも同じそれが欲しい心に生れる思いであった。伸子は、佃のところであり得る幸福からは、逃れたのだ。
日光のおどる芝生の間の小道を歩きながら伸子の心に、人の生きかたの哀さの思いが湧いた。
短い幸福をうけて四十五歳で死んだ佃も、そのように短い間の彼の幸福のために努力して、より大きい努力の必要のうちに三人の子供とともにのこされた夫人のめぐり合わせも、伸子には、気の毒に感じられた。
「お父様が、その育英資金に加わって下すったの、ありがとうございました」
その晩、一日の終りにいつもそうして時をすごすとおりアーク燈にてらされている公園の木立を見おろすホテルの部屋の窓ぎわに立って、伸子は、公園の散歩で父からきいたことを思いかえしていた。
悲しみと名づけられるこころもち、涙ぐむこころもち、そういう感傷は、佃が亡くなったときいたときから、伸子のなかになかった。しんとして、まじめにひきしめられた思いがあった。――佃の生涯は終った――佃の生涯は終った――その思いをたどっているうちに、伸子の心は自覚されていなかった一つの区切りのようなものを見出した。佃と自分とのいきさつは、完結した[#「完結した」に傍点]。その事実の新しい確認がある。
伸子は、これまで、佃に対して、何かの責任を感じながら暮していたのだろうか。伸子にそんな意識はなかった。だけれども、思いがけず佃の亡くなったしらせをきいた今、伸子の心のうちに強くなりまさるのは「完結した」という意識だった。伸子が何もしらなかった今年の四月のあるときに、伸子の過去の生涯に、一つの大きいピリオドがうたれた。伸子はきょうまで何もしらないままモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出発して、ロンドンへ来た。伸子の過去に一つのピリオドがうたれたとき、伸子は知らないままに伸子の新しい生涯の日々を歩みはじめていたのだった。
両手で顔をおおいながら伸子は夜の公園に開いている窓の前に膝をついていた。
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