A二つの指で下唇をつまむようにしてしばらく黙って、考えこんでいた。やがて、正直そうなふとった顔に一層悲しそうな表情を浮べながら、多分それがほんとうでしょう、と立ち上り、伸子とつれ立って重い足どりで看板おろしをしている入口へ出た。歩き出しながら、その男は同じような沈んだ声で、あなたはコンミュニストですか、と質問した。そんなしっかりしたものに思いちがいされたことは意外で、ノー、と答える伸子の声に力がはいった。
伸子のいるケンシントン街のホテルでは、「デーリー・ヘラルド」が労働党の機関紙だというので配達しなかった。「ワーカアス・ライフ」は、下町のスタンドで売っているだけだった。「ワーカアス・ライフ」は日刊紙になろうとして、ドイツの労働者はローテ・ファーネのために何をしたか、というアッピールをのせていた。
日曜日の午後、人の出盛る時刻にハイド・パークを歩くと、散歩道に沿った樫の大木の下に台をおいて、いろいろの男が演説していた。互の声を邪魔しないだけの距離をおいて、一人一人が立って話している台に、彼が属している団体や政党の名が書きつけられている。散歩している人々は、ぞろぞろと歩きながら、見なれた町のショウ・ウィンドウでも見るように、ここに独立労働党。次に自由思想家《フリー・シンカア》。アナーキスト。つづいて協同組合主義者《トレード・ユニオニスト》。共産党。クリスチャン・サイエンスと演説の断片を耳にはさんで歩いていた。もし、何かの言葉に心をひかれて止ってきくなら、それは、どの演説を、どれだけ聴こうと、質問しようと、討論しようと自由だった。演説者の並んでいる散歩道の前はかなりひろい草原で、そこの草の上には、ねころがって日曜を楽しんでいる男女や、かけまわっている子供の群がある。
ハイド・パークのここらを歩いたり、草の上にねころがったりしている人たちは、身なりを見ても、ヴィクトーリア公園に群れて乳母車を押しながらねり歩いている人々より、いくぶん生活のましな部類の人たちだった。労働者の家族にしても、就業している労働者たちの一家が多いことはすぐわかった。草原に体をのばしている男女は、一週に一度の大気と日光とにあますところなくふれようとして、特に女が、靴をぬいだ両脚をのばしている姿が、あちらこちらで目に入った。人々は、のんきに日光にあたっているか、自分たちの間で喋ったり笑ったりしていて、樹の下の、馴れっこになっている演説者に対して関心はうすいようだった。
広大な地域をしめているハイド・パークの大衆的なこうした風景と、身なりのきれいな人々のとりすまして、散策しているケンシントン・ガーデンのあたりとは、同じ日曜日の午後でも別天地だった。
泰造も、ロンドンへ来てからは、建築家として実務的ないそがしい日を送っていた。日本へ帰ればすぐとりかからなければならない大規模な大学校舎と病院建築の予定があった。イギリスの王立美術院の名誉会員である便宜を利用して泰造は、時にはノッティンガムまで出かけて大学や病院の視察に歩いていた。
和一郎夫婦をミセス・ステッソンのところへ落つけた今は、多計代も心に軽やかなところができたらしくて、ケンシントン・ガーデンの芝生の上で集って来る雀にパン屑をなげてやりながら、ゆっくり茶の時間をすごしたり、つや子をつれてテート画廊を見に出かけたりしていた。大使館関係の夫人たちを訪問したりもしている。ロンドンでは、言葉がわかるということが、泰造をくつろがせ、多計代の神経をも楽にした。しかし一行のなかでつや子の立場が宙ぶらりんなことは、パリにいたときとちっともかわらなかった。ロンドンのホテルでも、つや子の寝台は夫婦の寝室にもちこまれていた。イギリスのいわゆるちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]家庭のしきたりからみれば、つや子ぐらいの少女に家庭教師をつれずに旅行している佐々の一家は、いわば泊っているホテルの格にあわないとも云えるものだった。泰造や多計代は、そういうことに頓着していなかった。
伸子は或る晩八時すぎてから、つや子をつれて、トラファルガー広場から出発するトマス・クックの東区《イースト・エンド》見物バスにのりこんだ。トマス・クックはロンドンの観光ルートを独占していて、大戦まではロンドン市の恥とされていた東区の貧窮の夜の光景までを、夜のロンドン見物に変化を与えるスリルの一つとしてさし加えた。黄色と藍の塗料のきれいな大型バスは、車内に電燈をきらめかせながらテームズ河の河底を貫く長い淋しいトンネルをぬけて、追剥《おいはぎ》の出そうなロンドン・ドック附近を通り、ホワイト・チャペルの周辺の曲りくねった道へはいって行った。バスの行く道すじは、ジャック・ロンドンが「奈落の人々」の中に辿った道順とほとんどちがわなかった。止まったバスのまわりに集
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