て学校が動揺したが、結局ずるずるに納った。そのいきさつを宏子は短く書いた。それが「戦旗」の隅にのったのであった。宏子は太田にそう云われて、嬉しそうな顔になってはる子を見、
「随分直したわね」
と笑った。はる子が、いかにも姉ぶった調子で、
「だって、この人ったら小説か論文でも書くみたいにこってるんだもの」
太田と呼ばれている重吉は笑い出して、
「小説にかけるなら小説だっていいんだよ」
と云った。重吉は、はる子が先輩ぶっているところに興味を感じて眺めた。また宏子が、対手の経験の蓄積が自分よりは豊富なことを認めていて、素直で快活な態度であるのも快く感じられた。外套も服も一様に紺ぽい毛織で、カラーだけ真白な装をしている宏子の全体には、これから咲こうとしている何かの樹の花のような潜んだひたむきな調子があるのも感じられるのであった。
はる子はさっきから自然木の腰かけから手をのばして、霜で赤く色づいている躑躅《つつじ》の堅い葉をむしっていたが、やがて居ずまいを直して、
「私、一つ疑問があるんだけど……」
そう云って重吉を凝っと見つめた。
「私、今のままの生活をつづけていて正しいんでしょうか……」
宏子の顔に緊張した注意があらわれた。三田のことについての紛擾がああいう不活溌な結果になって終ってから、はる子は、学生生活に疑いをもちはじめた。そのことは宏子も打ちあけられている。
「私こないだの経験からいろいろ考えているんです――組合へついたりしちゃいけないんでしょうか」
太田というひとは何と答えるであろうか。宏子ははる子自身にまけない期待でまちもうけたが、重吉は何とも云わない。口を前よりもかたく結び、濃い眉をうごかして一種の身じろぎをしたばかりである。
「どうせ学校だって、おしまいまでいられるかどうか知れやしないんだし……」
熱心な、訴えをこめた声ではる子は、
「私、何かもっと基本的に成長したいんです」
と早口に云った。すこし赤い顔にさえなっている。
重吉には、はる子の置かれている心の状態がよくわかった。こういう苦しい訴えが、嘗て一遍も重吉の胸に湧いたことがなかったと云えようか。良心的な学生のいくつかの心をとらえたことがないと云えようか。当時思想的な波はひろく深く及ぼしていたが、例えば前衛の活動などについては、忍術武勇伝式の想像をもって描かれていた時期をまだ余りすぎていなかった。積極的な学生は謂わばめいめいが一生懸命になってたぐりよせた一筋二筋の糸につかまって進んで行っているのであったし、学生に対する全体としての方策については、それ自体が一足ずつ爪先さぐりに方向を見出しつつあった。一方では、どちらかというと素朴な形で、労働者でなければ人間でないように云われる風潮もあり、多くの若ものたちは未練なく学校をすてて、他の活動へ入って行っているのであった。
重吉は複雑な歴史の波を重厚に凌ごうとするように幅のある肩をうごかし、
「君の心持はわかると思うよ」
明るい外光の中で睫毛のこまやかさのはっきりわかる眼を、真直はる子の視線に向けて云った。
「その考えもわるくはないかも知れないが、もうすこし待って見ないか? いろいろ考えられているからね。学内もたしか変るよ」
「そうかしら」
「ここ一二ヵ月じゃないか」
「そう?」
傍で黙って聴いている宏子には、勿論、何がどうかわろうとしているのか推察も出来ないことであった。はる子も、それ以上説明を求めようともしない。重吉が自然木の腰かけから立ち上ってのびをしながら、そこに並んでかけている宏子とはる子のどっちへともつかず、
「まあ悠々とやるんだね」
そう云って、信じるところありげな眼の中に輝く笑を浮べた。
「一生のことだろう? いそがずといいさ。必要なら、どういう仕事でもやるという確信で、今の場所で最善をつくしていればいい。そうだろう?」
云いながら、重吉は自分の胸に迫って来る感動を覚えた。彼自身への未来は果してどのように展開されて来るであろう。彼が、高校時代から自身の才能についても活動についても、期するところあって自重している。その精華はいつどのような形で、新しい歴史の裡に活きるであろうか。それは彼の前にもまだ示されていない。
「すこし歩こうか」
三人は、それぞれの感動でしばらく黙って、かたい芽のふくらみ出した樹の間から、青空の見える小道を歩いて行った。ぽつぽつ話し出して、重吉が、
「この頃、みんなどんな本よんでいるかい」
ときいた。
「多喜二のものやなんかよむかい?」
「読んでいるけど、感想きくと、大抵素敵だと思うって云う程度なんです」
「『母』なんかもよますといいな。シャポアロフの自伝の中に、労働者がゴーリキイのあの小説をどんな心持で愛読したかということが大変よくかかれているよ」
インテリゲ
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