もこの人にしてみれば女に対して自分が選ぶ自由をもった上での好みである。折りかえした形であらわれている上流人らしい傲慢さを感じて、みほ子は、自分の中に反撥するものがあり、店のほかの連中と一緒に興味本位でそのお喋りに入ってゆけなかった。
みほ子は、古びた茶箪笥からカリン糖を出してかじりながらハトロン紙のカバーをかけた雑誌をめくっていた。そこに出ているエスペラント講習会の広告を見ているうちに、きりっとした彼女の口元がいかにもおかしそうにゆるんで来た。
二年ばかり前、みほ子は店で化粧品部にまわっていた。そこで扱うのは殆ど舶来品ばかりであった。特別フランス語が多くて、白粉と香水の名を覚えるに、みほ子は片仮名で書いたカードをこしらえて、往復の電車の中で暗誦しなければならなかった。その困難と、毎日の暮しの余りの単調さとから、いっそフランス語を勉強して見ようという気になった。みほ子は、神田の或る名の知れた教授所へ行った。受付口で初等級への手続をした。黒い事務カフスをつけたいくらか気取った若い男が、小さな風呂敷包を窓口において上気している物馴れないみほ子に向って、
「お名前は?」
ときいた。
「あの、高浜みほ子って云うんですけど……」
「マダムですか、それともマドモアゼルですか?」
「…………」
みほ子は何のことかよく分らず躊躇していたが、小腰をかがめるようにして真面目に答えた。
「あの、どっちでもいいんですけど……」
その時の自分の答えを思い出すと、みほ子は独りであはあは笑えた。受持の男は、初めびっくりしたような顔付をしたが、やがてニヤリとして、
「じゃ、マドモアゼルにしときましょう」
舌や口をいろんな風に動かして発音の練習をしなければならないのが、みほ子には、ばつがわるく、きまりがわるかった。それに、マドモアゼル・タカハマなどと尻上りな発音で呼ばれてフランス語の本を汗ばんで見つめている自分の姿と、机の中にひそめられている弁当包の生活とが次第に何だかそぐわないものに思えて来て、みほ子は三ヵ月ほどで通うのをやめてしまった。
今みほ子はもうマダムとマドモアゼルのつかいかたの区別は知っているが、先のようにきかれたら、矢張り笑って、どっちだっていいんですけれどと云いそうな気持も、働いている女の気持として、あるのであった。
みほ子はエスペラント講習の広告文を猶しばらく好意的な眼
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