ような同志小林の闘争のための論文は、右翼日和見主義者にとって身をかわすに余地ない痛撃であった。それにもかかわらず、右翼日和見主義者とその眷族調停派たちは、自身の誤謬を固執し、作家同盟の一部の同志は、同志小林の指導的批判に対していささかも科学的根拠のないデマゴギー的漫罵をわめきたてさえしたのである。
 同志小林の克己と努力とは遂にその逆流を克服した。プロレタリアートの党派性は勝利し、闘争の成果の一部は、最近作家同盟常任中央委員会が「右翼的偏向との闘争に関する決議」を発表するに至った事実にも認め得るのである。
 同志小林は確固たる国際プロレタリアートの観点に立って今日の情勢を分析し、そこからプロレタリアートの課題を導き出し、革命的任務を遂行するためには、それを妨害するあらゆる小ブルジョア的日和見主義と闘い、それを克服することを緊急事とした。特にこの点における同志小林の指導的理論家としての功績を無視し、あるいは過少評価してぼやかすことは、そのこと自身誤った右翼的危険を示すものなのである。
 最後に、同志小林の業績を評価するに当って、その発展のスプリングを、抽象化された性格に置こうとする誤った見解が存在する。同志貴司の『改造』四月号における「小林多喜二の人と作品」は、この危険を最も顕著に代表するものである。同志貴司は、同志小林の卓抜な闘志、前進性などの根源を同志小林のゆるがぬ党派性の上に認識せず、具体的な革命的実践と切りはなして、「鼻っ柱」のつよさ、「強がり」、「偏狭性」、「馬車馬的な骨おしみ知らず」、「田舎者の律気」などに還元している。そして「かれが積極的[#「積極的」に傍点]になる時、飛躍[#「飛躍」に傍点]する時、かれの性格の唯一の欠点である偏狭性[#「唯一の欠点である偏狭性」に傍点]が跳梁した」というに至って、誤謬はデマゴギー的性質にまで発展しているのである。この論法をもってすれば、同志小林が残虐きわまる拷問にあいつつ堅忍不抜、ついにボルシェヴィキの党派性を死守して英雄的殉難を遂げたそのボルシェヴィクの最後の積極性が発揮された時こそ、同志小林は最も偏狭であったということになるのだ。
 同志小林の業績を無条件、無批判に賞めることは、もとよりわれらの念願としないところである。しかし、レーニンは喝破している。「一体人は何か全く特別なものを考え出そうと努力すると、その熱心の
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