というものは階級闘争に立ち向うプロレタリアートの精鋭な武器とならねばならぬものであること、またプロレタリアートがその発展の歴史から見てもこの世に社会主義社会を招来[#「招来」に×傍点]し得る唯一の階級であるから、プロレタリア作家こそ社会主義建設のためにはその全活動を集中するものであるという動かすべからざる必然性を会得していない。
同志小林多喜二が、宮島氏等をして痛惜せしめる程傑出したプロレタリア作家であり得たのは、同志小林が宮島氏らによって反覆されている「文学的才能」や「頭脳のよさ」などを書斎で小まめに磨いたからではなく、彼がその不撓の精神でプロレタリアートの闘争を全く自身の闘争とし、その課題を課題として、倦むことなく刻苦しつづけたからである。真のマルクス主義者にふさわしく、文学をも階級の全闘争の欠くべからざる一部として従属せしめ、その正しい理解故に益々プロレタリア文学作品の価値を認め、自身率先して、常にその課題に答えるべく努力したからこそ、彼の根づよい前進があったのである。
このような発展の必然によって、同志小林が実践とともにボルシェヴィク作家として高まり、プロレタリアートの党派性の最高の組織に参加したことは、極めて当然である。
同志小林に加えられた兇暴[#「兇暴」に×傍点]な白テロ[#「白テロ」に×傍点]は、とりもなおさず全文化・文学運動を暴圧する支配階級の野蛮兇猛そのものである。一人の確乎たるボルシェヴィク作家の存在にも耐えぬ程、彼等の危機は深刻なのである。宮島、板垣氏らが以上のような現実を把握し得ず、さながら同志小林の当然の発展の道そのものを非とするような口ぶりを示すことは、同志小林を殺し[#「殺し」に×傍点]た憎むべき真の敵の姿を覆うものであり、そのことによって、弔辞はかえって敵の支柱、反動の役をつとめる結果に立ち到ったのである。
二
同じく、プロレタリア作家の発展の本質を理解し得ないことから『国民新聞』に掲載された杉山平助氏の「小林多喜二論」も彼を支持しつつ誤った評価を結果している。杉山氏は書いている。「彼のごとき作家的才能のあるものが実践の為に精力をとられ、芸術的活動をそれほど鈍らせるのは大局から見て損失だ」という風に論じていたようであるが、私はそうは思わない。杉山氏によれば、同志小林は作家として「当面やるだけのこと
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