を存在させないためには、その存在を欲しない人民の意志が文学を含む社会現象の全面に主張され、実現されなければなりません。民主主義文学が順調な発展を遂げてゆくこと、そのために私たちは骨をおしまず勇気をもって働くこと、それ以外に私たちの嫌いな権力的狂暴を封殺するものはありません。そのために必要な骨格は、民主主義文学についてのしっかりした過去と未来を見渡す能力のある理論と創作です。
 治安維持法的コンプレックスは退治してしまわなければだめです。実はそのコンプレックスで感情を刺戟されるのに、そのことにはふれず、何か外部からの強権を反撥しでもするようなすねかたをすることは、止めるべきだと思います。
 民主主義文学の最大の課題は、基盤となる階級の革命的成長とともに、ブルジョア文学の伝統である「私小説」から「私」を人民の文学の中へ解放することです。ブルジョア的な観念の中で主張される自我、個々なる個性が、現代の現実の中でその正当な発展的存在を守ろうとすれば、それはより広い人民的環境と行動の中に自身をおく以外に方法がないことは『近代文学』の人々がこの頃はっきり反ファシズムの線に乗り出してきたことをみても分ります。
 ブルジョア文学の中で、志賀直哉の文学を頂点としなければならなかった「私」は、民主主義の達成の一歩毎に単数の「私」から人民的複数の「私」に展開されます。小林多喜二の時代非合法であった共産党は、今日合法政党として存在し、工場細胞は公然です。非合法だった時代の党の気の毒な官僚主義、ヒロイズム、独善などがかりに小林多喜二の「工場細胞」に反映しているならば、小林多喜二的身がまえによって――積極的に歴史の課題に答えようとする民主的文学者の行動性で、その弱点は今日の「工場細胞」の現実描写を与えられてゆくべきだと思います。そこに民主主義文学の創作方法の新しい可能性があります。労働者の生活を内側から書くということの健全な価値がある。ソヴェトの作家の活動ぶりをみれば、民主主義の達成の程度につれて一人の作家が一生の間にどんな多様な社会的経験と作品活動を可能にされているかということがよく分ります。ブルジョア作家が狭い「私」的環境に止められて、僅かな感情冒険だの偏奇の誇張などにエネルギーをついやしている時、少くとも現在民主的作家は、政治的活動の分野を解放されているし、経営内の文化活動に直接ふれること
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