文学の仕事に入った頃、日本の文学はロマンチシズムの潮流に動かされていた。当時の文学傾向がそうであったと云うばかりでなく、また、藤村自身が二十歳を越したばかりの多感な時代にあったというばかりでなく、彼の処女詩集『若菜集』につづく四冊の詩集が、激しい自然への思慕、ロマンティックな自然への没入を示している心理の遠く深いところには、藤村のこの特別な幼年時代から少年時代へかけての境遇が作用しているように思われる。
明治学院の学生時分から、藤村はダンテの詩集などを愛誦する一方で芭蕉の芸術に傾倒していた。二十三歳頃吉野の方へ放浪した時も、藤村はこの経験によって一層芭蕉を理解することが出来るようになったと語っている。芭蕉の芸術はその文学的教養の面から、自然に没入する過去の日本芸術の伝統を藤村に植えた。加えて内部には、幼くて故郷から引はなされた者の感情に常に消えない虹となってかかっているふるさとの自然への魅力が潜み、更にそれがヨーロッパ文学の積極的な文学表現によって刺戟され、培われたのである。藤村が、芸術の源泉・秘密の源が「広大で無尽蔵な自然の間にあることは云うまでもない」と「春を待ちつゝ」の中で云っているのは、決して一朝一夕の思いつきではないのである。
藤村の『若菜集』(明治三十年。二十六歳)引きつづいて翌三十一年の春出版された『一葉舟』『夏草』、第四詩集である『落梅集』などが、当時の若い人々の感情をうごかし捉えた力というものは、今日私達の想像以上のものがあったらしい。日露戦争の後、日本に自然主義文学の運動が擡頭する前、日清戦争の勝利によって、新しく世界へ登場するようになったばかりの日本の社会には、謳うべくしてその言葉を知らないような新鮮な亢奮が漲ってもいただろう。与謝野晶子が、その「みだれ髪」によって人々を恍惚とさせたのもこの前後のことであった。藤村の若菜集は、二十六歳の青年詩人の情熱をもると同時に自らその当時の社会の若々しい格調を響かせたのであった。
『若菜集』の序のうたに、藤村は自分の詩作を葡萄の実になぞらえている。この一巻に収められている「草枕」「あけぼの」「春は来ぬ」「潮音」「君がこゝろは」「狐のわざ」「林の歌」等いずれも、自然にうち向かって心を傾け物を云いかけ、人か自然か自然か人かというロマンティックな境地にひたって作者は自然を擬人化し、それに対置して「されば、落葉
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