かった。そして、それ等のことは一つ一つ皆丁寧に、彼女の心のうちで、「善いこと、正しいこと」という言葉で総括されている一つの道徳的標準と照らし合わされ、引きくらべられて、各自の価値をつけられる。
 その価値は、即ち彼女の思っている「立派な人」の一分子として取り入れらるべきものであるか拒絶されるべきものであるかということなのである。
 ところが、だんだんと立つうちに、彼女はまったく驚き、混乱せずにはいられないいろいろなことに出会い始めた。
 赤という色は、それが赤であるかぎり、誰に見られても、どこに置かれても変りない赤であると思っていた者にとって、まったく同じその赤が、或るところでは、紫だと云われ黒だと云われ、もっとひどいときには、赤に違いない赤を見、見せながら、
 これは、青ですね。
 ええ、あなたがおっしゃるんだから青でしょう。青に違いありません。
と云うのを知ったことは、どれほどの意外さであり、また不快であったろう。
 すべてのことを信頼し、尊重しようとして期待し、心を打ち開いていた彼女は、まったく思いもかけなかった厭なもの、悪いとほか思えないことを、事々物々の裏に、見出さなければならなかったのである。
 そして、なおなお彼女の心を乱したことには、どんなにああ悪いと思うようなことも、皆決して、むき出しの悪いままではやって来ないことであった。
 善さそうな声や、愛嬌のある微笑を湛えながら、それ等は優しいしとやかな姿を装うて来る。
 彼女は自分の信じている人々――その人達はいつも善く正しいものだと許り思っていた人が――言葉とはまるで反対のことを平気でしているのを見た。
 可哀そうがられるべきだと云われつつ、気の毒な人が堪らないような辱《はずか》しめを蒙らなければならないのを知った。
 それ等のことに対して、彼女はいかほどの「感じ」を持っただろう。明かに矛盾を認める心、真正なことの裏切られる苦痛、適当な言葉を知らず、整った順序に並べることの出来るほど、複雑な頭脳を持っていなかった彼女は、何も彼にもただ感じるだけなのである。
 ああ、そんなことをするものではない、彼女は黙っていられないような、感じに打たれる。そして、顔があつくなり、息の弾《はず》んで来るのを感じる。けれども、彼女はあなたのどこは、どう悪いからお止めなさいということは出来ない。自分の心が唸りを立てるほどに漲
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