いる眼の明晰さが、最も美しくあらわれている作品だと思う。オオドゥウの、そのままで一つの物語をなしているような生涯がそれだけで彼女にあのような作品を書かせているのではなく、物語のようでさえある生活の様々の推移の場面で、彼女がそこに何を感じ、何を身につけて生きて来たかという、その生きかたの窮局が、彼女に彼女にしかない生活のみのりをもたらしているのである。

 どんな人でも、日々の暮しというものはもっている。だが、それが生活と呼ぶにふさわしい内容を持っているかどうかという点を省みると、そこに知性の問題があるのだと思われる。
 生活のなかで試され、鍛えられつつ生活にその力を及ぼしてゆく人間の知性は、普通なものであると同時に各々その人々に属した動的なものでもあるから、その人としての知性の限度が現実の或る条件のうちで負けることもまれではない。例えば、すぐれた生きてであり芸術家であったオオドゥウでさえも、最後の作品「光ほのか」のなかでは、彼女の知性が人生における一つの味、哀憐の趣というようなものへの傾倒のために弱められて女主人公「光ほのか」が、自分の生涯にかかわる愛さえ正当には守れなかった瞬間に対して、女として心から表すべき遺憾の感情を喪っている。自分の主観のなかで甘えると、知性は忽ち痲痺してしまうところを見れば、知性というものの本質は健啖であって、ひろいつよい合理的な客観力を、養いとして常に必要としていることも理解される。
 今日の日本で、そして女のひとの生活のありように即して、知性が云われるとき、私たちの心は一口に述べつくせない感想にみたされざるを得ないと思う。知性をゆたかならしめ広くつよくあらしめる条件が今日の社会にあって、婦人の知性の目覚めが云われているのか、それとも男が先立ってゆくこれまでの世の中のありようの野蛮さに対して婦人の知性が再び考慮にのぼって来ているのか、そのいずれなのだろうか。
 日本で婦人の知性が云われる場合、永い歴史が今日までそのかげを投げている独特な習俗によって、知性の本質に対する解釈もおのずと変形させられて、活溌な、動的な、時には破綻を恐れず荒々しい力で新しい人生の局面をも開こうとする面はとかくうしろに置かれ、受け身な物わかりよさ、昔ながらの諦めをシモーヌ・シモンの髪かたちめいた現代の表情で表現するという風な範囲に、きりちぢめられている危険はないと云
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