深く純粋な友愛を失うことはないのです。
 けれども、ここに私共の考えなければならないことは、現在の日本の夫婦間には著しく欠乏している友情[#「友情」に傍点]が彼等に於ては感情の基礎となっている為に、或る一部の人からは、女性の奉仕が足りないとか、良人が甘いとか云う非難を聞かされることです。
 勿論、心の賤しい、出鱈目の女ならば、自分は臥床に横って良人を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]するようなことがないとは云えません。又、人前では虚偽を装って、平常|擲《なぐ》りつける妻の腕を、親切気に保ってやる男もないではありませんでしょう。
 けれども、相当の人格を持った者の間には、夫婦の情愛が、もう一歩鎮り、叡智的になった友情が深く生活に潜入していると思います。妻の知識はいつも良人のそれよりは低いのが常態であり、常に、良人が上位から注ぐ思い遣り、労《いた》わり、一言に云えば人情に縋って生活する状態では、事実に於て、妻も良人も二人の人として肩を並べた心持[#「心持」に傍点]は知り難いものではないかと危ぶまれます。
 妻の要求も良人の要求も、同量の重みを持っている。妻のそれを満すことが目下より容易《たやす》いことであったら、先ずそれを先にし、後良人の方に取かかる。又、場合によっては、それが逆になるようなこともありましょう。お客があって、妻が丁度話しに身が入った時、紅茶を出すべき刻限になった。良人が立って行って、先刻妻の準備して置いた道具を持って来、それに湯を注ぐ。気がついて、夫人も話しながら体を動かして、菓子やその他を配るでしょう。
 何についても、斯様な、安らかな協力があると思います。下婢《かひ》を雇わない二人ぎりの家庭では、必ず妻が独りで食事の準備をすべきものとは思っていません。一緒に、何でも二人のために[#「二人のために」に傍点]都合よくと考えて行動します。故に、或る場合には、大局に於て結果のよい為に、小さい不便を忍ぶことが双方にあるでしょう。それは、二人の負う義務並に責任で、決して相すみません、と云わなければならないことではありません。互に為すべきことを明に弁え、正しく賢く着々と生活を運転させることが彼等の理想であって、理由のない遠慮で仕事も遅らせたり、過度な感情に沈湎して頭を乱すようなことは、見識のない無知として斥けずにはいられないことなのです。
 生きた例として、私はここに或る夫婦の日常を写して見ましょう。私が暫く世話になった大学の先生夫婦です。良人はコロンビア大学に植物を教え、夫人は、同じ大学に、矢張り植物の一分科を受持っています。子供はなく、六室ばかりのアパートメントに住んでいるのです。
 R氏は、大抵朝の九時、十時頃から、午後の四時頃まで大学に行っています。自分の研究室で授業外の時間は研究や書きものに没頭しているのです。けれども、夫人の方は、毎日時間があるのではありません。一週間のうち、月、木、金の日だけは朝から午後まで学校で、あとの日は皆自由時間なのです。
 学校へ行く日は、勿論良人と一緒に起き、朝飯を軽くすませ、戸に鍵を下して出かけます。アパートメントの入口にはいつも玄関番がいて、若し来客でもあった時には氏名、用向を聞いて書きつけて置きます。それを、帰って来た時に渡して呉れるのですが、あちらでは、約束をして置かないで人を訪問するのは、留守へ出掛けるものと定めて置いてよい位、誰でも、接客日でない日には、のらくら[#「のらくら」に傍点]家で時間を潰してはいないものです。たとい在宅であっても、きっとなりふりかまわず、何か仕事をしている。よほどの仲よしか、親類ででもなければ、電話で用だけ足して会わないで帰っても何とも云えない風習ですから、家中空になっても私共が、日本で経験するような不便、不都合はありません。
 で、二人とも学校の時は、勿論昼食は外ですませます。学校の中に、学生や先生のために、便利で健康的な食堂が出来ていて、廉価に滋養のあるランチが得られます。食後、暫く構内の散歩をし、誘い合って帰宅する時間まで、三時間なり四時間なり又研究を続けると云う訳なのです。
 両人に仕事のある日、夕飯は、静に落付いて食べると云うのが主眼で、決して無暗《むやみ》に手のかかったものを幾品も作ることはありません。大抵、米国の中以上の家では、肉汁《スープ》、肉類野菜の一皿。サラダが主なもので、あとは菓子、果物と珈琲位の献立てです。瓦斯《ガス》が自由に使え、いつでも蛇口を廻せば熱湯が出る台処は、働くに着物を汚す場所でもなければ、心持の悪い処でもありません。一時間も準備にかかれば気持よい夕餐が出来ます。
 それを、談笑のうちにしまい、後の洗物や何かは良人も手伝って、七時半頃までには、外出するとも勉強するとも、眠るまでの時を、さっぱり空けて置く
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