行為と認めて通していることでも、インテリゲンツィアとしての自主的な判断、その行為の社会的価値の評価に立って、敢てしないところにある。それをしないからと云って叱るものがないにしろ、人間としてなすべきことと知ったときには我身に負うてそれを敢て行う合理性の強靭さではないだろうか。夏目漱石時代のインテリゲンツィアさえ、この人格自立の精神についての原則は理解し、主張している。文学の発端も、この人間性の主張にこそはらまれているのである。
平野氏が、小林多喜二の死を英雄的に考えることは、要するに一つの俗見であって、それは日本の民主主義そのもののうちに尾をひいている封建性であるとし、その幻想をはいで見せようと試みているなら、それは目標を誤って重大な過失となった。小林多喜二が殺されたそのことが偉いのではもちろんない。インテリゲンツィアが歴史の進歩において可能とされる自身の展開のために献身し得る道がそこにしかないというような社会をこそ私たちは絶滅しようとしているのだし、小林自身の窮極の目的もそこにあった。小林多喜二の死は、まさしく日本の自主的精神に加えられた暴圧の表現である。そのような結果さえもたらした野蛮暗黒な当時の日本で、小林多喜二が一人の正直なインテリゲンツィアとして、自分の良心の声、自分の人間的確信に従って、そのとき最善と判断された解放運動の方向に従ったということにこそ、今日のすべての自覚あるインテリゲンツィアにとっての共感が生きているのである。急性肺炎にきく薬はペニシリンしかないというとき、和製のペニシリンはよくきかないからと云って、それを使わずに良人を死なす妻が天下にあるだろうか。日本の解放運動が様々の歴史的負担のもとに未熟であったとして、日本の解放運動の形がそのほかになかったとき、そこに参加したことは愚行であったろうか。インテリジェンスとは、こういう急所で、はっきり事態の意味を弁別する思考の能力をさしていうのである。
今日、日本の民主主義は、難航を示している。国内国外もつれ合う潮の流れの複雑さと、主体的に日本のインテリゲンツィアをこめる全人民に民主的感覚が成熟していないことのために、難航である。それだからと云って、民主的社会建設の方向を懐疑し、インテリゲンツィアが自身の歴史的運命の発展に躊躇することは賢明だろうか。学者や作家が自身の才能のよりゆたかな開花とより豊純な真と美の追求をとおして、民主社会の促進に参加することはむだな骨折りであり得るだろうか。
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:同上(1946(昭和22)年10月執筆の遺稿)
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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