どろくべき延長で今日もなお地球の大部分の文明国においても本質的には変化させられないままで来ているのである。
 日本が今やっと民法における婦人の地位の改良に着手した。日本が近代資本主義の国として出発したとき、既に改正されるべきはずであった資本主義社会の枠内での婦人の人権が、今日ようやく認められて来た。そのくいちがいの大きさ。即ち、明治からの七十年間近くが半封建のかげを日本の婦人の生活の全面におとして来ていた。「家」という藤村の傑作がある。そういう文学作品の表題は中国文学の中と、日本文学の中にしかないだろう。バルザックは「人間喜劇」をかいた。しかし、日本の文学の中には「家」がある。鴎外の歴史文学の卓抜した諸作品には、「阿部一族」のように殉死という忠節の表現さえ、「家」を守る武家の痛ましい封建的な経済事情によるものであることを鋭く描き出した。婦人は「家」に属し、その利害に応じて一生を費し、「家」のために貞操を強要された。「家」の所属品として、きずのないことを求められつづけた。しかも、封建の女の生涯に「家」というものは何であったろう。「女は三界に家なし」無限の悲哀を誘うこの現実と、生殺与奪の権利をもった男たち、その父、その良人、その息子からさえ監視されて、貞節に過さなければならなかった女の生涯を眺め合わせたとき、私たちは心から慄然とする。女とはどういう生きものと思われて来たのであったろうか、と。

 ヨーロッパ諸国の社会の進歩とルネッサンス以来の人間解放の方向とは、中世封建の社会から女にだけ強要された野蛮な貞操の縛《いま》しめをといた。世界に資本主義の生産と経済が発達するにつれて個人の権利は主張されて近代資本主義社会の機構の範囲で民主的な国々では、社会における男女の等しい権利とともに、その恋愛や結婚、離婚、互の愛への責任としての貞潔に対する同じ責任と義務とを見るようになった。中世は、家長によって禁じられた恋愛のために、数々の悲劇をもった。「ロミオとジュリエット」にしろ、「パオロとフランチェスカ」の物語にしろ、スタンダールの「カストロの尼」にしろ。近代キリスト教は、その資本主義社会のモラルとして恋愛と結婚の純潔を主張した。家庭の純潔をもとめた。相手に対して貞潔であること――精神と肉体とが互の愛の調和のうちに統一されてあることを求めているのである。そして、貞潔であるということは
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング