らっしゃい。すっかり落していらっしゃい!」
見る見るそこにいた六七人の者は、緊張した。真赤になったおつやさんの顔を見ると、少し濃い目ではあるが、のびよく美しく白粉がついている。
どうなるかと思う自分の眼の前で、おつやさんは、さっと涙に眼を曇らせ、訴えるように、哀願するように、先生を見た。が、先生の顔には、相手が、未だ十八の、少女であるのを忘却したほどの憤り、憎しみが燃えている。
一二秒、立ち澱み、やがておつやさんは、矢絣の後姿を見せながら、しおしお列を離れて、あちらに行った。
彼女は素直に、顔を洗いに行ったのだ。
暫くして、皆席についてしまってから、水で、無理に顔をこすったおつやさんは、赤むけになったように痛々しい面を伏せて、入って来た。
その心持を思い、無惨な、若い女の感情を、些《ちっと》も労わる真心のない先生に対し、私は、いたたまれないばかりの苦痛を覚えた。
若し、自分の生んだ娘であっても、彼女は、あれほど、烈しく、恥しい、辛い思いをさせるに堪えただろうか。何故、時間でもすんだら、そっと陰に呼んで、
「少しお拭きなさい。明日からは、もう少し分らないようにつけましょうね」
と、必要な警告なら、与えてやらないのだろう。
愛のないこと。それが、若い心には、骨髄に滲み徹る。自分なら、恐らく、そのまま家へ帰ってしまったろう。それを、心持を忍んで、また、皆の裡に戻って来たおつやさんのしおらしさが、同い年であった自分に、いいようのない感銘を与えたのである。
おつやさんも、恐らく死ぬ迄、その時の心持は忘れ得なかったろう。
彼女が死んだときいた時、先生の心には、これほど短く一生を終るのであったら、あんなに辛くは当らなかったものをという思いは湧かなかっただろうか。
[#地付き]〔一九二二年六月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人之友」
1922(大正11)年6月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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