るのである。
誰でも多くの人はその幼年時代の或る一つの出来事に対して自分の持った単純な幼い愛情を年の立つままに世の多くの出来事に遭遇する毎に思い浮べて見ると、真に一色なものでは有りながら久遠の愛と呼び度い様ななつかしい慰められる愛を感じる事が必ず一つは有るであろう事を信じる。
彼はその私の久遠の愛の焦点であった事を断言する事が出来るのである。
彼は私の親族中只独りの宗教家であった。
而かも献身的な信仰を持って居た人であったので、周囲の者の目には様々な形に変えられて写り記憶されて居るで有ろうけれ共私に対しての彼は常に陰鬱に深い悲しみが去らない様な態度を持って居る人であった。彼の目は大きい方ではなかった。
けれ共其の黒い確かな瞳には力が籠って居て多少人を威圧する様な、しっかり自分の立ち場を保って動かされない様な感じをさえ持って居た。
青黒く肉の薄い顔。
高い額の下に深い陰を作って居る太い眉。
重々しい動作と低くゆるゆると物を云う声。其等は彼特有のすべての表情を作って居たらしく――人の話に依れば確かに一度見れば忘れない印象を与えるそうだったが、私に対しては記憶の裡の叔父の顔と今生きて居る或る盲目に成ろうとして居る男との顔が混同して、宙に顔の細かい部分部分まで思い浮べる事は非常に難かしい事なのである。
其の男の顔中に漲って居る底奥い沈鬱さと色が大変よく叔父に似通って居るからなのである。
一番思い出さるべき顔の様子までその様に自分のものは不明瞭であるから、これから書いて見様とする種々な時に起った様々な事柄の互の間には何の連絡もなく、理由も時間も明かでない事の方が多い。
また彼の死ぬまでの経歴等と云うものも私は云う積りではない。
私は只、私と居た一年足らずの間に私の稚い記憶の裡に生き死にをした彼に――私の愛した叔父に会おうとするのである。
長らく米国に居て宗教の研究をして居た彼は突然何の前知らせもなしに帰朝した。
此の不意の出来事には、彼地で家庭を持ち死ぬまでを暮す積りで居るのだと予想して居た多くの者共を非常に喫驚《びっくり》させた。
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「まあよくお帰りになった。
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と云う一句は実に種々な意味を以て囁かれたのであった。
彼は只帰り度く成って帰ったと云っては居たけれ共今思えば――それは非常な憶測かも知れ
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