にも考えられた。けれども――先に貰った他の手紙を、はる子は思い出した。それに、自分は平常どんなに反感を抱いている人の仕事でも云々。また、あなたに愉快な反感を感じると云うようなことがあった。今、はる子の心に、それ等の言葉が心理的に必然な連絡をもって甦って来た。千鶴子は、自分が好きでもあるのだ。また嫌いでもあるのだ。その相反撥する感情に苦しめられた揚句、圭子が癪に触ったにかこつけ、はる子への悪態もかねて爆発してしまったのではあるまいか。千鶴子は、圭子と調和しようと努めたが不可能と知ったと云っているが、その陰に、はる子に対して調和しようとしたがと云う感情もかくされているのではあるまいか。人間の微妙な心! はる子の内心にある千鶴子に向って二つに破れて合わぬ感情、それが千鶴子にも在ったのだ。はる子が努めて彼女を容れれば容れる程、千鶴子の反感は二重三重に募って来、終に持ちこたえられなくなったのであろう。
はる子は陰鬱になり、圭子が見ないようにその手紙を裂きすてた。千鶴子が、自分に対する複雑な反感を潔よく現し、真直罵るなり何なりしたら、却って心持よかったとはる子は遺憾に思った。千鶴子は圭子に向ってそのように激しつつも、はる子に対しては、その寛大さや友情を認め感謝を示していたのであった。
その心持に嘘はないとしても、はる子は、では当分来ない方がよかろうと、簡単に答えるしか仕方なかった。
暑気が厳しい夏であった。食慾がまるで無くなるような日が風の吹きぬける家にいてもあった。或る朝、新聞と一緒に一葉のハガキが卓子にのっていた。
「忙中ながら、右御通知まで。小畑 千鶴子」
逆に読みなおしたら、千鶴子の母の死去通知であった。東京に出て僅か二月になるかならぬで死なれた。――はる子は千鶴子を何と不運な人かと思った。彼女の不幸は内と外とからたたまって来るようだ。死んだ母という人も余り仕合わせそうでなく、気の毒に思う心持が沁み沁みあったが、はる子は手紙も供物も送らなかった。
追っかけて手紙が来た。母という人は、はる子が来て呉れるのを楽しみにして、わざわざ別な茶器までとり揃え待っていたのに、と。母の死で打撃を受けている千鶴子の心持も察せられ、その文句も哀れを誘った。けれども、宣言的な前便については一言もふれず、じかに人情に訴える効果を見越したような運びかたは、はる子に落付けないのであった。悲しいいやな心持で、はる子は手紙を状差しにしまった。
秋が来た。夕方、忽ち夜になる。俄かな宵闇に広告塔のイルミネイションや店頭の明りばかり目立ち、通行人の影は薄墨色だ。模糊《もこ》とした雑踏の中を、はる子は郊外電車の発着所に向いて歩いていた。そこは、市電の終点で、空の引かえしが明るく車内に電燈を点して一二台留っていた。立ち話をしている黒外套の従業員の前や後を、郊外電車から吐き出された人々が通る。ひょっと、その群集の中に、はる子は千鶴子らしい若い女を認めた。こちらからはる子が進んで行く、二間半ばかり前面を横切って省線のステイションの方へ行く。横顔が確に千鶴子なので、はる子は覚えず立ち止った。そして声をかけようかと思った。丁度その刹那《せつな》、上体を少し捩《ねじ》るような姿勢で歩いていた千鶴子が、唇を何とも云えぬ表情で笑うとも歪めるともつかず引き上げた。千鶴子は勿論はる子がそこにいることは知らない。が、それは特徴ある表情で、見覚えがあるとともにはる子の出かけた声を何故か引こめさせる力があった。千鶴子は何か考えつつ、その表情を固定させたまま行きすぎた。
はる子は、寒いような心の上に、異様に鮮やかな彼女の口元の印象をとめたまま、家に帰った。置手紙を見て、はる子はおどろいた。あれは、千鶴子が彼女のところへ来た帰りであったのだ。
彼女の不思議な特色をもって、再び千鶴子の、あの自らを傷るような唇の表情が遠方から痛ましくはる子の感情に迫って来た。はる子はその為に幾日も苦しい思いを経験した。自分は本当に拘りない心になって千鶴子を迎えることが出来るだろうか。対等の気持では不可能であった。人世の鬼面に脅かされ心の拠《よ》りどころを失った若い女性に対するはる子の同情を押しひろめてのみ、千鶴子は容れられる。然し、千鶴子は折々微かでもそのような心持を含んで対されるさえ癪で、堪え難かったからあの手紙も書いたのではあるまいか。はる子は、終にいつまでか判らぬ沈黙を悲しく続けた。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「文芸春秋」
1927(昭和2)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
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