投げかけた。海上から、人の世の温情を感じつつその瞬きを眺めた心持、また、秋宵この胸欄に倚って、夜を貫く一道の光の末に、或は生還を期し難い故山の風物と人とを忍んだだろう明人の心持。……茫漠として古寂びたノスタルジヤが昼の雨に甦って来るように感じた。
福済寺から受ける全印象は、この寺が、嘗て僧院として存在したというより、明人及長崎先覚者等の間に倶楽部のような役目をつとめていたらしいことだ。広大な方丈に坐って点滴の音を聴いていたら、今日は沈君の絵を一つ見ようと思って、などと談笑しながら幾人もの支那人が畳を踏んで来た気勢を感じるようであった。
毎日よく雨が降ることだ。名物の紙鳶揚も春とともに終った長崎の若葉を濡して、毎日雨が降る。Yは、哀れな、腕が痛く心が重いので、雨を冒してまで方々を歩き廻る気になれず、従って私も部屋で、宿から借りた長崎風土記など読む。可愛く若い福島屋の細君が、
「――鶴の枕でも、御覧になりませんか、何でも、楊貴妃が使ったものなんでございますって。頭をのっけると鶴の鳴声が致しますんだそうです」
頼山陽が、その鶴の枕を鳴して見て、出来た詩がその家の宝になって有る由。
――長崎というところは、然し不思議なところだ。鹿児島から着いた時、ジャパン・ホテルにいた数時間、実に堪え難い程町じゅうにはびこる物懶さ、眠さ、不活溌を感じたが、一日一日、滞在の日が重るにつれ、逆に快い落付きを感じて来た。降りこめられ、宿の三階で午後を暮しても、そこが旅先の泊りであるという遽しさ、寥しさなどちっとも感じない。町の空気に、それ位ひろい伝統的な抱擁力がある証拠と思う。
いよいよ今日は立たなければならないという日。雲は断れたが、強い風が出た。すっかり霽《は》れ上ったというのでもない。思い出したように大粒な雨が風と一緒に横なぐりにかかる。
Y、
「――だから、貧乏旅行はいやさ」
苦笑せざるを得ない。自動車で大浦天主堂に行く。松ケ枝川を渡った山手よりの狭い通りで車を下り、堂前のだらだら坂を登って行く。右手に番小屋が在る。一人の爺さんと、拝観に来たらしいカーキの兵卒がいる。私共は、永山氏からの名刺を通じた。
「日本のお方か、西洋のお方か、どちらへやるかね」
「どちらでもいいのです。――拝観出来れば……」
すると、爺さんは名刺をそのまま私にかえしながらいった。
「拝観なら、儂《わし》でええ、今、葬式で誰もいなさらん。そこの右の方から入って見なさい。柵の中へさえ入らんけりゃどこでも見なすってええ」
「――勝手に拝見してもわかりますか」
「儂はな、もう年よりで病気だから、行ってもええが説明は出来んの、ここが苦しいから」
彼は胸のところを抑えて見せた。
「――ただ見るだけ……」
折角来たのに失望も感じたが、爺さんの眼付と言葉は朴直を極め、強いてそれ以上何と云う余地もない。
私共は左に花壇のある石段を登り、日本信徒発見記念のマリヤ像の立っている正面玄関の右手扉を云われた通りに押して見た。開かない。ぐるりと裏に廻ると別に入口があり、ここは易々と開いたが、司祭の控室らしく、白い祭服のかかっている衣裳棚などがある。第一、塵もない木の床を下駄で歩いては悪そうだし、困って私は彼方此方を見渡廻した。樟の木蔭に、附属家屋のペンキを剥して、職人が一人働いている。私はその男に尋ね、灌木の茂みをわけて通じる石段を更に半丁ばかり登った。頂上で土地が展け、中央に十字架の基督像を繞って花壇がある。雲の断れ目から照り出した初夏の日光に、ゼラニュウムや蔓薔薇の紅の花が、純白な大理石の基督の肌と、つよい対照で目を射た。人気ない。陰気な程深い張出しつきの教師館を修繕中で、朽ちた床板がめくられ、湿っぽい土の匂がする。テニス・コートらしい空地で、緑の草を女がむしっている。私はやっと、御堂内では一切穿物を許さないということだけを知り得、荒れた南欧風の小径を再び下った。御堂の内部は比較的狭く、何といおうか、憂鬱と、素朴な宗教的情熱とでもいうようなものに充ちている。正面に祭壇、右手の迫持の下に、聖母まりあの像があるのだが、ゴシック風な迫持の曲線をそのまま利用した天蓋の内側は、ほんのり黄がかった優しい空色に彩られている。そこに、金の星が鏤《ちりば》めてある。星は、嬰児が始めて眼を瞠って認めた星のように大きい。つつましい冠をいただいた「いと貞操なる御母」まりあは、その稚い美感の制作である天蓋に護られ、献納の蝋燭の焔に少しばかりすすけ給うた卵形の御顔を穏かに傾け佇んで在られる。祭壇の後のステインド・グラスを透す暗紅紫色の光線はここまで及ばない。薄暗い御像の前の硝子壜に、目醒めるようなカリフォルニヤ・ポピーの一束が捧げてあるのが、いじらしい。隅に、紅金巾の帷を垂れた懺悔台がある。私共が御堂内にいる間に、女が二人参拝に来た。祭壇に近い柱のかげに坐り、包みから白い布を出してヴェイルとする。その被衣姿、二十六聖徒殉教図などに描かれているままであった。
同じ日に浦上の天主堂も観た。大浦天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物だ。浦上の切支丹信徒が経験した受難の種々は世に知られている。この建物も、始め起工した時から近年完成する迄には数十年を閲し、信徒の中には、自分の息子を大工、左官に仕立てその労力を献じて竣工させたという話も聞いた。御堂の大さは確に、大浦天主堂の数倍あるであろう。合唱台もあるらしかった。けれども、建物ががらんとし過ぎ、明るすぎ、正面祭壇の白亜壁の前の巨大な花瓶に、厚紙細工らしい大棕梠の飾が立ててあるのなど、アフリカの沙漠を連想させた。ここには、それに大浦のようなピューがない。一面滑らかな板敷で、信徒は皆坐るものと見える。壮大な柱の根もとに穢い木綿坐布団が畳んでつくねられてあるのを見ると、異様に未開な感じがした。未開な、暗い頭脳が一むきに、ぜすきりしとを信奉し、まことに神の羊のように一致団結して苦難に堪えて来た力は、驚くべきだ。公平な立場から書かれた歴史を読むと、私共はシャヴィエル、ワリニヤニ等初期の師父――伴天連《バテレン》達が、神の福音をつげるに勇ましかったと同時、なかなか実際処世上の手腕をも具備していたことをしる。当時、その師父等と交誼のあった日本の君子等は、勿論知識と信仰とに呼醒されたこともあったに違いないが、純粋にその渇仰のみによってそうだったのだろうか。日本に於ける基督教布教史は当時乱世の有様に深く鋭く人生の疑問も抱いた敏感な上流の若い貴公子、女性などの無垢な傾倒と、この浦上の村人のような幼児の魂を持った人々の献身とによって、如何に美しく、如何に悲しくされているかしれないと思う。数多く来た伴天連の中には、これ等の人々のゆるがぬ信仰の殆んど神秘的な力をまのあたり見て、自分の信仰をも高めた者が一人もなかったと、どうして云えよう。それにしても、切支丹宗のどの福音がこんなに久しい伝統となるまで強く村人を捕えたのか。そして現在一九二六年の生活と信仰とはどんな工合に関係し、調和し、生きているのだろうか。この疑問は、天主堂から出て帰り途、若い二三人の娘が揃って御堂への坂を登って来るのに出会って一層はっきり私の心に起った。本願寺という寺の広間はこうもあろうかと思われる浦上天主堂の板の間の大柱の根に、薄穢く極りわるげにつくねられていた座布団どもの恰好を思い出すと、私の胸にはアナトオル・フランスの一つの物語が自然に浮んで来る。その題は、聖母の曲芸師。
浦上は、今長崎市から電車で僅三十分ばかりの郊外である。市中との間は、都会の外廓につきものの雑然さの中にある。私共は大浦の天主堂にいるうちに、天候が定ったらしいので俄に思い立ち、大浦停留場から電車に乗ったのであった。
終点から、細い川沿いに、車掌の教えてくれた通り進んだが、程なく二股道に出た。一方は流れに架った橋を越して、小高い丘の裾を廻る道、一方は真直畑を通る道。何しろ烈しい風の吹きようだ。真正面から吹きまくられて進むことは、二人とも寸時も早く免かれたい。彼方から女学校一二年らしい少女とその弟らしい子が連立って来かかった。私はすぐ、
「天主堂へは、どっちの路が近いでしょう」
と訊ねた。少女は、困った表情で私を見、自分の弟の顔を見た。
「さあ――私存じませんが……」
が、頓智で、
「御堂ですよ」
と、註釈を加えた。――少女は育ちのよい娘らしく、わだかまりない容子で、
「ああ、御堂!」
と叫んだ。御堂なら、橋を渡った方が近いのだそうだ。
赤土の泥濘を過ぎ、短い村落の家並にさしかかった。道のところどころに、雨あがりの大きい泥たんこが出来ている。私共二人、もう行手の丘の上に天主堂の大きく新しい城のような建物を望み何心なく喋りながら、一軒の床屋の前に通りかかった。床屋の前の床几に五六人、七つ八つから十三四までの男の子が集っている。ちょうどあった泥たんこを、私共は左右によけて一二歩歩いたと思うと、不図背後で何か気勢がした。Yが反射的に後を振かえった。私も。子供を背負った一番大きい男の子が急いで床几に戻った刹那であった。Yの靴下から、服、ケープの肩のところまで、泥の飛沫が一杯ついている。Y、つかつか床几の処へ行った。
「何した」
「――」
「こんな悪戯する奴があるか」
悪童は、すっぱりと一つ喰らわされた。Yの洋装に田舎の子らしい反感を持ったのと、手下どもに己を誇示したかったのとが、偶然この少年をして「殴られる彼奴」にした原因だ。帰り、天主堂の坂下にその少年、他の仲間といたが、Yを認めると背中に括りつけられた隠し切れない旗じるしをひどく迷惑に感じるらしい。何とも曖昧な薄笑いを浮べながら、こそりと崖のくぼみに引とった。笑い、私共、歩きながらも笑った。
出島跡を歩いて、私共自身への土産に些細な買物をし、長崎を立ったのはその夜十一時であった。前後たった四日の滞在であったが、その間Y、始終腕の腫れに悩まされ通しではあったが、楽しかった。大体、九州の旅行全体が楽しかった。九州は旅行するに変化ある。一つの盛沢山な前菜皿のようだ。陸の境界をそれぞれの山で区切られている国々は、大分にしろ、宮崎にしろ、特色をはっきり保有している。鹿児島と長崎など、ただ一夜汽車に乗るだけで、見ぬものにこうも違おうとは考えられまい。私の願いは、いつかもう一遍、これ等の国々を、汽車の線路よりは少し自由に奥まで彷徨《さまよ》い歩いて見たいことだ。どうぞその時までには、編輯者諸君が沢山私の稿料をくれますように、ペダントリーの種がますように。そして、愛するYが、時間と金とを魔術のように遣り繰る技能に、一段の研磨の功を顕しますように。
[#地付き]〔一九二六年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「改造」
1926(大正15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング