岸をずーっと南に降る線、および鹿児島から北に昇って長崎へ行く列車など、実に閑散なものだ。窓硝子に雨の滴のついた車室にいるのは、私共と、大学生一人、遠くはなれて官吏らしい男が二人乗り合わせているぎり。海岸に沿うて、汽車は山腹を潜っては出、潜っては出、出た時にやや荒れ模様の海の景色が右手に眺められる。私共は、今日雨降りで却ってよかったと思った。南風崎《はえのさき》、大村、諫早《いさはや》と通過する浜の黒々と濡れた磯の巖、灰色を帯びた藍にさわめいている波の襞、舫《もや》った舟の檣《ほばしら》が幾本となく細雨に揺れながら林立している有様、古い版画のような趣で忘られない印象を受けた風景全体の暗く強い藍、黒、灰色だけの配合色は、若し晴天だったら決して見られなかったに違いない。
 長崎のステイションも、夜来の雨で、アスファルトが泥でよごれている。僅かの旅客の後に跟《つ》き、私共は漠然期待や好奇心に満ちて改札口を出た。赤帽と、合羽を着た数人の俥夫が我々をとり巻いた。
「お宿はどこです」
「お俥になさいますか」
「――ふむ――まだ宿をきめていないんだが、長崎ホテル、やっていますか」
「あすこはもう廃めました」
 すると、俥夫達の背後に立ち、頻りにYを観察していた大兵の青帽をかぶった詰襟の案内人が、
「上海へおいでですか」
と訊ねた。我々は苦笑した。長崎というと、私共は古風な港町を想像し、古びながら活溌に整った市街の玄関を控えていると思っていた。降りて見ると、改札口につきものの嫌な宿引きさえ一人もいない。それは心持よいが、タクシーもなく、激しい速力で昨夜から、長崎へ、長崎へと、駛りつづけて来、緊張した神経が突然無風帯に落ちこんだような緩慢さを感じた。ゆっくり問答した結果、私共は二台の俥に乗った。長崎唯一のホテルであるジャパン・ホテルに先ず行って見ることになったのだ。日本風の宿屋は二三、名を調べてあった。然し私共は京都を出たばかりから、美味い紅茶やバターの味の欠乏を感じていた。長崎ではホテルに泊るというのが、楽しみの一つでもあった。
 停車場前の広場から大通りに出ると、電車の軌道が幌から見える。香港、上海航路廻漕業の招牌が見える。橋を渡る。その間に、電車が一台すれ違って通った。人通りの稀な街路の、右手は波止場の海水がたぷたぷよせている低い石垣、左側には、鉄柵と植込み越しに永年風雨に曝され
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