を以て無邪気極りなく格子の奥に笑って居る。
 大観門の左右にあった、高さ凡そ二尺二三寸の下馬じるしを意味する一対の石の浮彫も目に遺った。この門の前、石欄のところに、慈航燈が在る。高く櫓形に石を組みあげた上に、四本の支えで燈籠形の頂がつけられて居る。恐らく昔、唐船入津の時節、或は毎夜、そこに燈明が点ぜられたものであろう。大体、この福済寺からの眺望は、長崎らしいということでは際立ったものと思う。細雨を傘によけて大観門外に立って見ると、海路平安と銘あるそのすっきりした慈航燈を前景とし、右によって市中の教会の尖塔がひとり雨空に聳えて居る。濡れた屋根屋根、それを越すと、煙った湾内の風光が一眸におさめられる。佇んでこれ等の遠望を恣にして居るうちに、私は不図、海路平安とだけ刻まれた四字の間から、海上はるかに思をやった明末の帰化人の無言の郷愁《ノスタルジー》を犇《ひし》と我心にも感じたように思った。

        第四日

 運のわるいこと。今日は雲の切れめこそ見えるが、急に吹き降りの大粒な雨が落ちる。けれども、今日引こもっては、もう大浦、浦上の天主堂も見ずに仕舞わねばならない。其は残念だ。Y、天を睨み
「これだから貧棒旅行はいやさ」
と歎じるが、やむを得ず。自動車をよんで、大浦天主堂に行く。坂路の登り口に門番があり、爺さんが居る。これも、永山氏の御好意による名刺を通じると、爺さん
「日本のお方か、西洋のお方か、どちらへあげるね」
と訊く。どちらでもよいように永山氏はただ大浦天主堂御中という指名にされてある。私丁寧に答える。
「どちらでもよろしいのです。拝観さえ出来れば」
 すると、爺さん、名刺を見ようともせず私にかえし
「拝観なら、私でええ。今、葬式で皆お留守だ。そこの右の方から入って見なさい。木の仕切りの中へ入りさえしなければ勝手に見なさってええ」
 私共は顔を見合わせ、当惑して笑い合った。今度はYが訊く。
「勝手に拝見してわかりますか」
「――わたしはな、もう年よりで病気だから、説明が出来ませんじゃ、ここが苦しいから――だからただ見るだけ」
 冬の日向ぼっこのような平和な愛嬌が爺さんの言葉に溢れる。
 ただ拝見することにして、右手という、正面入口の右手扉を押して見たが明かない。ぐるりと後に廻ると、開く扉はあったが、司祭控室らしく、第一、下駄で入ってはわるそうだし困って、私は、附属家の手入れをして居たペンキ屋に、掛りの人の居処を聞いて見た。灌木の茂みの間の坂を登り切ったところに、大理石の十字架上の基督像を中心とした花園がある。其処に、木造の、深い張り出しを持った一棟古風な建物があるが、其も今手入れ最中人かげもない。テニス・コウトで草むしりをして居た女から、御堂《みどう》では草履をはかせないことを聞いて戻り、やっと内に入った。
 賑やかに飾った祭壇、やや下って迫持《せりもち》の右側に、空色地に金の星をつけたゴシック風天蓋に覆われた聖母像、他の聖徒の像、赤いカーテンの下った懺悔台、其等のものが、ステインド・グラスを透す光線の下に鎮って居る。小さいが、奥みと落付きある御堂であった。特に、ここには、正面入口の中央に、大理石で、日本信徒発見記念のマリア像が在る。
 空模様もよくなったので、私共は浦上へも行くことにした。浦上と云えば、静かな田舎であろうと思って居たところ、長崎の市の真中から電車で四十分ばかりの処だ。終点から川について教わった通り行ったが、二股道にかかり、さてどちらに行ってよいか判らない。丁度十五六の女の子が通りすがった。
「天主堂へはどっちの道を行ってよいでしょう」
 此辺の人と見かけたのに、分らぬらしく
「さあ、わたくし知りませんが」
 Y、問答をきいて居て、註釈を加えた。
「御堂ですよ」
「ああ御堂!」
 すっかり笑い乍ら、近路を行く。暫くすると右手の高台に、まだ新しく、壮大な堂が見えて来た。この堂の建設のために、信徒は三十年も応分の寄附を怠らず、或者は子を大工や左官に仕立ててその技を献納したということだ。ゆるやかな坂をのぼった処で、黒服、鍔広帽の外国宣教師が、村の子とふざけて居る。日本人の尼僧がつれ立って、礼拝堂から出て来た。大浦の天主堂を見た眼では、明るく出来立てで大きく、どこかに東本願寺というような感がしなくもない。
 内部も規模大で、祭壇の左右に合唱壇もついて居、堂々としたものだ。ここで、信徒は皆床に坐ると見え、腰掛《ピュー》は一脚もない。大浦の祭壇や聖像は生花の束で飾られて居たが、この宏い大聖壇を埋めるに充分な花は得難いと見え、厚紙細工の棕櫚らしいものが、大花瓶に立ててある。この大会堂に信者が溢れて、復活祭でも行われる時は壮観であろう。然し私の好みを云うなら、自分は大浦の、女らしさの限りをつくしてレースや花にとりまかれた御母《おんはは》マリア、赤や紫の光線に射られ、小さい暗い宝石の結晶のように柱列《コロネイド》、迫持の燃え立つ御堂の陰翳を愛する。
 市内に戻り、出島町を歩く。梅蘭芳《メイランファン》の芝居で聞いたような支那音楽を奏し乍ら、披露めやが横通りを通った。直ぐその下を私が通りがかりつつある一八〇〇年代の建造らしい南欧風洋館の廃《すた》れた大露台の欄干では、今、一匹の印度《インド》猿が緋のチョッキを着、四本の肢で一つ翻筋斗《もんどり》うった。



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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