は、附属家の手入れをして居たペンキ屋に、掛りの人の居処を聞いて見た。灌木の茂みの間の坂を登り切ったところに、大理石の十字架上の基督像を中心とした花園がある。其処に、木造の、深い張り出しを持った一棟古風な建物があるが、其も今手入れ最中人かげもない。テニス・コウトで草むしりをして居た女から、御堂《みどう》では草履をはかせないことを聞いて戻り、やっと内に入った。
 賑やかに飾った祭壇、やや下って迫持《せりもち》の右側に、空色地に金の星をつけたゴシック風天蓋に覆われた聖母像、他の聖徒の像、赤いカーテンの下った懺悔台、其等のものが、ステインド・グラスを透す光線の下に鎮って居る。小さいが、奥みと落付きある御堂であった。特に、ここには、正面入口の中央に、大理石で、日本信徒発見記念のマリア像が在る。
 空模様もよくなったので、私共は浦上へも行くことにした。浦上と云えば、静かな田舎であろうと思って居たところ、長崎の市の真中から電車で四十分ばかりの処だ。終点から川について教わった通り行ったが、二股道にかかり、さてどちらに行ってよいか判らない。丁度十五六の女の子が通りすがった。
「天主堂へはどっちの道を行ってよいでしょう」
 此辺の人と見かけたのに、分らぬらしく
「さあ、わたくし知りませんが」
 Y、問答をきいて居て、註釈を加えた。
「御堂ですよ」
「ああ御堂!」
 すっかり笑い乍ら、近路を行く。暫くすると右手の高台に、まだ新しく、壮大な堂が見えて来た。この堂の建設のために、信徒は三十年も応分の寄附を怠らず、或者は子を大工や左官に仕立ててその技を献納したということだ。ゆるやかな坂をのぼった処で、黒服、鍔広帽の外国宣教師が、村の子とふざけて居る。日本人の尼僧がつれ立って、礼拝堂から出て来た。大浦の天主堂を見た眼では、明るく出来立てで大きく、どこかに東本願寺というような感がしなくもない。
 内部も規模大で、祭壇の左右に合唱壇もついて居、堂々としたものだ。ここで、信徒は皆床に坐ると見え、腰掛《ピュー》は一脚もない。大浦の祭壇や聖像は生花の束で飾られて居たが、この宏い大聖壇を埋めるに充分な花は得難いと見え、厚紙細工の棕櫚らしいものが、大花瓶に立ててある。この大会堂に信者が溢れて、復活祭でも行われる時は壮観であろう。然し私の好みを云うなら、自分は大浦の、女らしさの限りをつくしてレースや花にとりまか
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