のであった。これらの古煉瓦こそ、あの明治時代からあった高塀からとって来られたもので、この一廓はもと占めていた敷地の四分の一ほどのところ迄退いているが、全然この土地から消えているのではなくて、愈々《いよいよ》新式に整備されて、あまたの人を養いながら、そこにたっていることを知るのである。
 原っぱの端れあたりからの遠見だと、コンクリートの高さはわからないから何かの大きい工場のように見えるその建物が落成したとき、新聞に記事がかかれた。設備万端が改善されて、人が自由に暮すアパートのようだと語られているのであった。そして近日内部を公開して一般に見せるという記事である。
 とある低い崖の上の小さな家の縁側で、サヨがその新聞記事に目をとめた。
「あら」
 膝をのり出すようにもう一度その記事の上へ視線をあつめた。
「ちょいと、これ……わたし達みられるのかしら。――見たいわ」
 いくらか上気したような頬をあげて、その新聞をわたした対手はこの家にいるべき筈の重吉ではなくて、編ものをもって一人暮しのサヨのところへ遊びに来ている友子であった。
「本当にどうなんだろ……でも行ってみましょうよ、ともかく」
「ねえ」
 サヨは友達の思いやりをよろこぶ表情で、
「私なんかには、ぜひみせてくれたっていいわけなんですもの」
 だって、家族なんですものという心持をあらわして笑った。
 ほんとにサヨはその内を一目みたい気がした。ああこんなところに暮して、こんな廊下も歩くのか。そうわかったら、どんなに重吉の一日も現実的に感じられて、こちらの気が楽になるだろう。
 勤め先の事務所で名簿の整理をしながらも、サヨは子供っぽいような熱心さで時々それを空想した。そのくらいのつつましいうれしいことは、妻である自分の身にあってもよさそうに思えた。
 当日になると、サヨは友子と池袋の駅で待ち合わせて、そこからバスにのった。そのバスも初めてであったし、ある学校の前で降りて呉服屋の角を曲る、その道も、まして原っぱは初めて見るから、サヨは物珍しさの抑えられない面持で歩いた。同じ方角へぞろぞろと人が行っていて、紋付の羽織姿の奥さん風の女も幾人かそこにまじっている。道端に自動車が二三台待っていた。紅白の布をまきつけたアーチが賑やかに立っている。サヨは、
「どこから入るんでしょう」
と、はずむ息をおさえるような顔をして、そのアーチの奥や、ずっと塀に沿った遠くの別な門をのぞいた。雨上りの日で、そこらあたりはサヨの靴が吸いとられそうに赭土《あかつち》が泥濘《ぬか》っているのである。
「何だかわからないわねえ」
 靴をよごして、落胆した様子で戻って来るサヨを、友子が手をあげておいでおいでをした。
「ちょっと、一般に見せるっていうのはここなんですってさ」
「ここ?」
「ええ」
 二人は腑に落ちない顔つきでうしろのテント張の場所を見やった。足元をよくするためにコークスのもえがらを敷いた空地に天幕張があって、そこには共進会のように新しいおはちだの俎板《まないた》、盥《たらい》、大|笊《ざる》、小笊、ちり紙、本棚、鏡台などという世帯道具がうずたかく陳列されているのであった。新しい木肌の匂いは天幕の外へあふれている。腕章をつけた男がいて、即売されていた。サヨたちと一緒にバスを降りた紋付羽織の女づれは、それらの品物のやすいのに興奮したような手つきで、何か喋りながらいかにも気やすそうに買物をどっさりよっている。
 すこしわきへのくようにしてサヨと友子は暫くそういう光景を見物していた。ふと気がつくと、その往来の向う側に下駄の歯入れやだの古俵屋だのの並んだ前からこっちを見物している男女があった。そんなにひろい道幅でもないのに、町のひとたちは自分たちの軒下から離れないで、赤白のアーチとの間に動かせない距離を認めているような表情で、あっち側から見ているのであった。
 やがて、サヨが友子の手をそっととった。
「行きましょうか」
 友子は歩き出しながら半ば感服したように、
「よく売れているわねえ」
と云った。
「売れるにこしたことはないんでしょうけれど、……おはちなんかねえ」
 おはちは家庭の団欒《だんらん》のシムボルのようなものだから、何だかあたり前の町の桶屋さんの店にあるものの方が、そこからたべやすいという友子の感じかたは自然で実感があった。
 バスへのってからサヨは、
「ごめんなさい」
と云った。
「無駄足させて」
「いいわよ、そんなこと」
 二人は足を揃えてさも何か用事のところからのかえり路のようにサヨの家まで一気に戻ったが、格子の戸じまりをあけているうちに、サヨは滑稽でたまらなくなったように笑い出した。
「いやあねえ、まったく私何て頓馬なんでしょう」
 重吉にこのことを話したら、重吉は何というだろう。咎めはすまい。ば
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