られているものの輪廓がせり出して来て、きょう作業場の小屋掛けがとり払われたかと思うと、いつか飯場の露天竈も見えなくなって、後に長いコンクリート塀に囲まれた幾棟かの建物が完成した。そこには造幣局が出来たのであった。
そうなると、改正道路から見る原っぱの眺望も初めの頃とはすっかりちがって来た。左手にあの桜の並木の側に四角く建ったのは小学校である。それから、そのすこし奥に真新しい造幣局が出来て、それは以前そこまであとしさりして行ったもっと長いコンクリートの高塀と、黒い道一筋をへだてているだけである。草っ原は今やひろびろとした一帯の印象を失って、途切れ途切れの空地にすぎないものとなった。それでもそこから秋の更けるまで頻りに虫がすだいた。
もう一つ夏がめぐって来たとき、界隈の様子はまたこまかくうつりかわっていて、そこの小さな女の児が背負って遊ぶ赤い人形が、おから[#「おから」に傍点]桶の上に転がっていたりする豆腐屋のガラス戸に、原料不足につき月二回休業のすり紙がはり出された。
棒鱈屋のさきの米屋に、米の御註文は現金で願いますと刷ったビラと並んだ黒板に、内地米二割、外米八割と書かれていた。マッチ配給イタシマス。そういう貼紙が荒物屋にあった。そして、短い町すじの共同水道をはさんだこっちとあっちとに、町会が建てた二本の建札があって、それにはその前に建札の立った家からの戦死者の名が記されているのであった。
パッカードとかハドソンとかいう高級車が時々その長い高塀に開いている門の横にとまっていることがあるようになった。
その年の春ごろから、世の中が愈々鋭い角度で推移しはじめていることがそんな光景にも語られているようであった。
幾度か苦しい気持になりながら、それでもサヨは一つ住居に住みとおして、時間のゆとりのあるつとめの傍ら少しずつ洋画の修業をやり直しはじめていた。
重吉に対するサヨの妻としての感情は、云ってみれば純粋でしかあり得ないような条件で、サヨはその感情の純粋な単一さとでもいうようなものにこりかたまることを、重吉の心の成長のためにも自分のゆたかさのためにも警戒した。自分でも気づかないでいたような様々の感情を、自分に向って表現する手だてがあるとすれば、サヨとしては好きな画を描くことによるしかなかった。サヨが自分で自分のいろんな到らなさや鬱屈や感情の上すべりした所を絵のなかでは割合発見してゆけるように、重吉もサヨのそういう実際を、サヨの下手なスケッチ絵ハガキからつかむだろうし、そのことから、重吉自身が自分の心の明暗を濃やかに活々とさせ得ることがあったとしたら、うれしいにちがいなかった。
絵に表現されてあるものについては、ともかくぐるりの友達が遠慮なく感想を云ってくれる。それもサヨにはよろこびであった。絵をやりはじめてから、いつかの春、雑司ケ谷の墓地のあたりを切なさいっぱいでふらついて歩いた。ああいう衝動も、サヨは情熱の潜勢力のようなものにかえて暮せるようにもなった。
八月はじめの或る夕方、サヨは妹夫婦の家に行った。ゆき子が初産で、予定の日が来ていた。母親が早くなくなっている姉妹で、そういうときゆき子は姉を心だよりにするのであった。
重々しく充実した体にちょいと可愛くサロン前かけをつけて、上瞼に薄く雀斑《そばかす》のある顔を傾けながら、ゆき子はいやに断定するように、
「今夜あたり、どうもあぶなっかしいわよ」
と云い出した。進一は縁側にねころんで食後の煙草をつけている。
「またおどかしだろう」
「ずるいわ、御自分はこわいもんだから」
サヨがあわてたように二人を見くらべながら、
「ねえ、ちょっと。自動車大丈夫なの? 私いやよ」
と云った。
病院へはサヨがついて行く約束になっているのであった。
ほんとに夜なかの二時すぎたころ、サヨはひどく甲高な声で何か云っているゆき子の声と格子のあく音とではっと目がさめた。茶の間へおりて行ってみると、ゆき子は煌々とした灯の下で、もうさっぱりした浴衣にきかえて、立ちながら手くびにつけた時計を柱時計と合わせている。
「ああ、めをさまして下すって、よかった!」
幾分ふだんと変った声で云って、腕時計の面を見守りながらねじをまいている。
サヨはいそいで着物をきかえ、進一が運転台にのって来た自動車にゆき子をのせた。ゆき子はサヨの手を握っていて、痛みがよせて来るたびに握っている手に力をこめて息をつめるのであった。
「大丈夫? もつ?」
そう云いながらサヨも我知らず人気ない街を疾走している自動車の中で草履の爪先に力をこめた。痛みの間がだんだん短くなって、サヨの心配が絶頂になった時、車はやっと病院に着いて、ゆき子はすぐ産室につれられた。
二階の室で、閉めてあった窓をすっかり開け、サヨはそこにあった籐椅子を
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