光景がありありと感じられた。なんなんでしょう! 囁き声はサヨの耳のはたできこえるようで、それは自分の声でもある。
 この時、サヨが身のまわりに感じた一人ぼっちの感じの鮮やかさは、畳の目を照らし出していたスタンドの明るさの孤独なさやけさとともに、実にくっきりとした異様な感銘であった。
 高窓をあけて、ぼんやり焔の色を反射している雲の多い空を見て、床に入って横わっても、サヨは眼を見ひらく心地で、夜のなかにくっきり照らし出されたようなその感銘にいた。何という溢れるばかりな寥《さび》しさだろう。いっぱいで、まぎれもなくて、そのまぎれない純粋さから不思議な美しさの感情へまでつきぬけて行くような、何という寥しさであったろう。
 東京のどのくらいのひろさでそのとき人々が目をさましていたかは知らないが、同じ夜の驚駭のなかに自分という女のそんな思いも目ざめて加わっていることを、サヨは現代のいとしさとして愛着するのであった。
 日ごろは、そんな気分で暮している。サヨがその春の昼、棒鱈やの横丁から現れて、開通したばかりの電車通りを眺め、旺盛に芽立つ雑木林に目をひかれ、やがて再びごみごみした横丁へ辿り入ったときの気持は、一種名状しにくい乱れ心であった。
 重吉と暮したい心の激しさがサヨをつきうごかして、落つかせないのだけれど、その方法のない余り、発作のように何とか暮しの形でも極端に変化させたら気が休まりそうな思いがして、サヨはそういう刹那アパート生活などを描くのであった。
 欅の梢の見える横丁を行くと、青々とした樒《しきび》の葉が何杯も手桶に入れてあって、線香の赤い帯紙が妙なにぎわいを店頭に与えている花屋の角へ出た。そのつき当りは雑司ケ谷の墓地である。墓地といってもここはちっとも陰気でなくて、明るい日が往来ばたの木戸に照っている。花屋の方へ裏の羽目を向けてそこにアパートがあった。偶然そこへ出たサヨは半ば本気なような、半ば自分のそんな気持に抵抗しているような複雑な気持のまま、外の明るみに馴れた目には窖《あなぐら》の入口のように思える三和土《たたき》の玄関を入ってみた。
 もっと薄暗く見える廊下の奥にドアがいくつか並んでいて、バケツを下げたシャツ姿の男がそっちから格別いそぎもしないで出て来た。サヨは空室があるかどうかきいた。
「さあね、ここ当分動く人はありますまいよ」
 元は職人ででもあったような管理人はあっさりした口調で答えた。
「ここはやすいからね。新学期でどうっとふさがりましたからね。やすい代り、台所が共同なんでね」
 すこし笑い顔になって、その不便もみとめている。礼を云ってそこを出て、動揺した切ない心持のままサヨは、元来た三つまたの方に向って歩いた。この界隈に執着してうろうろとあるきまわっているのであったけれど、近くなればなるほど近さが強調して感じさせる重吉との距離の不自然さが生々としてサヨを苦しますのであった。苦痛とたたかって、自分の心と体とをそれから引はがそうとするような気力をあつめて、サヨは省線に乗った。
 竹藪のよこの足場のわるい石ころ坂道をのぼり切ると、更に石段があって、古びた門にかぶさるようにアカシヤの大木が枝をのばしている。その門のなかに友子夫婦の住居があるのであった。八つ手の植った格子をあけようとしたが、建てつけが歪んでしまっていて容易に動かない。幾度かやってみて、遂にサヨは、
「友子さアーん」
と大声で呼んだ。気をつけながらいそいで二階から下りて来る友子の気配がした。この古い家は梯子段の間がなみよりも遠くて、もう何年も棲んでいる友子でも気がゆるせないのであった。
「ほんとに、この家ったら!」
 自分のうちの生きものでも叱るような口調で友子が内から格子をガタガタさせた。
「こないだなんか、わたしが出て、あとをしめたら、もう入れないんだもの」
 まあこの主人の私がよ、というその調子にはこの夫婦の暮しにある独特な諧謔《かいぎゃく》がひとりでに溢れていて、サヨは気分が転換されるのを感じた。
 こんな時刻に現れればサヨがどこからの帰りだということを説明する必要も二人の間にはないのであった。
「お茶いれましょうね」
 湯のわく間、友子は内職の編物をまた膝にとりあげている。この夫婦も、もう久しく家をさがしていた。家が古くなりすぎて、風のきつい夜なんかはおちおち眠っていられない。でも、ここで探しているのはただ家だけであった。家の見つかるまでは、つい足をふみはずして準助が二階からパイプをくわえたままころがり落ちて、ひどく腹を立てたりしながらも二人でやって行っている。自分がこうやって時々瞳の中に小さい火をもやしたような顔つきになってさがしまわるのは何だろう。家ばかりのことでない。それはサヨも知っている。
 友子の編棒からは、一段一段と可愛い桃色の毛
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