て1字下げ]
註。左肩にスエズ運河を船が通過するところ右下には英語でニッポン、ユーセンカイシャ、S・Sビンゴマルと書かれた今日で見れば小さい客船の写真がある。凡そ二十年ほど後に、父は再びこの運河を、このハガキに所謂我妹子と子ららやからを伴って通ったのであった。母は旅行記の中に、スエズを通った日のことを書いているが、このようなハガキが遠い昔自分におくられたことを果して思い出していたであろうか。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(五)の一
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。エッフェル塔のエハガキ。一九二九年の初秋には、このエッフェル塔にシトロエン6というイルミネーション広告が終夜明滅していた。父、母、妹たちはヴル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール・ペレールのアパートメントに住み、百合子はヴォジラールの下宿の窓から、シトロエン6、シトロエン6、とせわしい明滅が、シャンゼリゼイの方に向って瞬くのを眺めた。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(五)の二
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。巴里、エトワールのエハガキ。後年、日本の女詩人与謝野晶子の健やかな双脚をして思わずもすくませたりという凱旋門をめぐる恐ろしい自動車の疾駆は未だ見えず、二頭びきの乗合馬車がカツカツと二十世紀初頭の街路を通っている。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(六)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。ランガム・ホテル全景。第五階とことわりがきのしてあるところを辿ってホテルの窓を下からのぼって見ると、屋根部屋のすぐ下に当る。当時でもヨーロッパではホテルの階が上である程やすいということにかわりはなかったのであろう。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(七)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。右手に茶色に見えるのが、チャーリングクロス停車場であろうか。このエハガキのむこうから黄色い外套を着ぶくれた御者にあやつられて栗毛の馬二頭にひかれた乗合馬車が来る。広場の中央に一本ガス燈の立っている周囲を、四本の標で区切ったいとささやかな安全地帯があって、包をもった子供がそこへかけつけている。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(八)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。風車・乾草・小川は秋空をうつして流れている。農婦は赤い水汲桶を左右にかついで小川に向って来る。画中の女、戦の勝敗を知らず。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(九)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。この頃シベリアは郵便物が通れず通信すべてアメリカ経由でされている。このハガキは東京へ八月二十七日着している。殆ど四十日かかって、ハーフディンバアの沙翁の家の写真が母の許についたわけである。父がまだ出立しないうち、一夜本郷座でシェクスピアの「ハムレット」を川上音二郎一座が演ずるのを見物した。五つ位の娘であった私の茫漠とした記憶の裡に、暗くて睡い棧敷の桝からハッと目をさまして眺めた明るい舞台に、貞奴のオフェリアが白衣に裾まである桃色リボンの帯をして、髪を肩の上にみだし、花束を抱いて立っていた鮮やかな顔が、やきつけられたようにのこっている。
[#ここから1字下げ]
漱石がカーライルの旧屋を訪ねた時だけは帳面に自分の名を書いた。あの変り者のカーライルでも沙翁の家へ行ったときは自分の名など書く気になったのであろうかと面白い。ダンテの名もあるとハガキに父は書いているが、神曲の作者は沙翁がエリザベス女皇の劇場で活躍するより数世紀以前に白骨となっている。どこの、どの、神曲を書かさるるこれはダンテであったのだろうか。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(一〇)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。緑濃き野面に一本の桜桃の樹が丸く紅の実をたわわにつけている。その枝の下に一人の若い女が柔かい顎をあげて梢を仰いでいる。その顎のまわりに父はペンをとって細い一連の鎖とロケットとを描き、ロケットの心臓型の表には、はっきり小さくYと刻まれている。母の名は葭江である。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(一一)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。若い娘が三つのリンゴを掌の上に舞わして遊んでいる。イギリスの子供の生活にお手玉はあるのだろうか。お手玉はしなくなった娘は、ケンジントン、パアクの芝生で、これも老年に至った父とプッティング、グリーンをして戯れた。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(一二)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。漱石が明治三十三年にケムブリッジへ行ってそこの学生々活を観察し、次のように書いている。「こゝにて尋ねたる男の
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