父の二弟であったと思う。東京帝大法科卒業の年に漂然とアメリカへ行ってしまった。熱心なホーリネス信者となって、多分明治三十九年の秋ごろ帰朝したが、間もなく中耳炎を患い手術後の経過思わしくなくて没した。父と性格は大変に異っていた。一本気な、やや暗い、劇しい気質であった。私は暫時であったがこの伯父から非常に愛された。沢山のバイブル物語をおそわった。小学一年生で、友達の告げ口をした時、つねられた。死の恐怖を知ったのはこの省吾伯父の没した時であった。
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書簡(三三)
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註。この年、父が事務的な用向をもってニューヨークへ赴き、二十歳ばかりの私も伴われた。郵船の伏見丸。左側に献立を印刷し、右手に松と二羽の丹頂鶴の絵を出した封緘にこのたよりはかかれている。裏の航路図に、インクであらましの船位がしるしてある。
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書簡(三五)
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註。一九二九年の一家総出のヨーロッパ旅行は、父の経済力にとって、又母の体力にとって、超常識な決断であった。父は、母を海外へつれてゆくについて、万一の場合、子供らから離れていては母がさぞ悲しいであろうと、長男夫婦、末娘までを一行に加えた。
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私は二年前よりモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に居り、五月マルセーユまで行って、家の一行と合した。母は、一生に一度は見て置きたいと云っていた外国旅行の間、驚くべき努力で毎日日記をつけた。父は母の永年の労をねぎらうためと、一九二八年八月一日に三男英男が自分から生命を断った、その悲愁から母の心持を転換させようとこの旅行を企てたのであった。母は一九三四年六月十三日に持病糖尿病から肺エソになって没した。後、母の残した日記を集めて「葭の影」という一冊をこしらえた。一九三五年四月十八日、父の第六十八回目の誕生日に、私が父を気に入りの浜作に招き、その席で「葭の影」という題名を父が思いついた。「葭の影」のこの日の条には、こう記されている。「七月廿七日、晴。涼し。前略。交際馴れた近藤氏はロシア語も自由であるらしく、種々とメヌーをくり返して注文された。羊肉の串焼を高く捧げて、一人の助手がそれを恭々しくぬいては客に供する、実にこと/″\しい。そのうちに、この家独特のロシアの貴族? の一団によるバイオリンやヴオーカルがはじまり、婦人の出る時は、その度々電燈が消された――踊り手だけを照らしつゝ――」云々と。一九二九年以後ヨーロッパ、特にフランスの事情は一変して、漫遊客の数は今日劇減している、思えば我が一家は、世界事情が将に一転化しようとするその前夜、未だ夥しくヴルヴァールを彷徨していたアメリカ人の間に計らずも互していたのであった。
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書簡(四〇)
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註。この旅行へ出発した朝、車が本郷一丁目辺まで来た時、父は自分が紙入だか何か忘れて来ていることに気付いたのだそうであった。国男がいそいで引かえし、特急に間に合わせようとしたが到頭駄目であったので、金は電報為替にして送り、紙入その他は又別に送ったりした由。この秋、父は何年ぶりかで、計らず最後となった奈良の古美術足脚をしたのであった。
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底本:「宮本百合子全集 第二十五巻」新日本出版社
1981(昭和56)年7月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「中條精一郎」国民美術協会
1937(昭和12)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
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