現在でも開成山の家の戸棚に、赤ラシャの布につつまれてしまってあります。
一九一八年に数ヵ月ニューヨークへ出かけた折の分も散逸してしまって居り、一九二九年五月、一家を引連れてヨーロッパ旅行した節のも、これぞというのがありません。この旅行の初めに、やはり父の気持ではエハガキ通信をつづけるつもりであったらしく、留守宅あてに「西欧行脚」という題で、これから送る通信なくさずとって置くように、と書いていますが、アルバムの様子で見ると、父自身やがて書き送らなくなってしまったようです。家には、そのようなハガキを待っているという人も居なかったし、不馴れな多人数での外国旅行で、さすがの父にも、この「西欧行脚」を完結することは不可能であった有様がうかがわれます。
以下に、折々の通信のほんの一部分を抄出し、これらの通信の書かれた当時の雰囲気紹介のため、懐しい父への愛着のため、娘の思い出によって註を附しました。[#地から2字上げ](百合子記)
書簡(一)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。イースタン・アンド・オリエンタルホテルの絵葉書。父のほかに「いが栗老人」などと自署された他の人々の寄書がある。ホテルの木立の間に父の筆で、雲を破って輝き出した満月の絵が描加えられてある。父は当時いつも「無声」という号をつかい、隷書のような書体でサインして居る。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(二)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。父は当時三十七歳。旧藩主上杉伯の伴侶としてイギリスに旅立った。留守宅の収入は文部省官吏とし月給半額。妻と三子あり。高等学校の学生であった頃から父の洋行したい心持はつよく、ロンドンやパリの地図はヴェデカの古本を買って暗記する位であった由。この知識が偶然の功を奏して、当時富士見町の角屋敷に官職を辞していた老父のところへ、洋行がえりの同県人と称して来て五十円騙った男を追跡し、それをとりかえしたという逸話さえある。しかしながら、遽しく船出して見れば、境遇上故郷に走せる思いはおのずから複雑であったのであろう。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(三)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。アフリカ海岸と飛島点々。父のペン画なり。
[#ここで字下げ終わり]
書簡(四)
[#ここから改行天付き、折り返し
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