出ていた。七八人の男女が表に出ている写真を看ていた。通りすぎようとすると、友達が、
「一寸」
と私の腕を控えた。
「この麻雀というの、こないだの蜂雀の真似じゃあないこと――そうだ、滑稽だな、澄子の麻雀とは振っている。一寸立ち見をしないこと」
 私は、日本映画は嫌いなのだが、蜂雀を麻雀とこじつけた幼稚なおかしさや、澄子がどんなに真似をするのかという好奇心に釣られた。垂幕《たれまく》をあげて入ると、中は満員であった。やっと、二人が立つと、すぐ麻雀が始まった。蒲田で、澄子その他が麻雀をして遊んでいると、その遊戯を知らない何とか君《くん》という、ひどく太い眉毛の若者が傍のソファで仮睡をし、夢で女賊マジャーンに出会するという筋なのだが――マジャーンが、スワンソンの蜂雀通りの扮装でスクリーンの上に蜂雀通りの順序で現れると、私共は思わず笑い出してしまった。小柄な、くくれた二重顎の一重瞼の眼付から笑う口許まで、ひどく陶器人形じみた顔付の澄子は、何とうまくスワンソンの真似をすることだろう。さも悪者らしく、巻煙草の横くわえで、のっそりのっそり両手をパンツの衣嚢に肩をそびやかして横行するところから、あの両肱をぐいと持ち上げる憎さげなシュラッギングまで。堪らず私を笑わせたのは、そんな悪漢まがいの風体をしながら、肩つきにしろ、体つきにしろまるでふわふわで、子供っぽくて――謂わば小さな子が大人の帽子でもかぶったようなところのあることだ。
 真似が上手ければ上手いほど可笑しい。自然に溢れる滑稽は、眉太き青年旅行家が殴り倒され、麻雀の保護を受け、麻雀が若者に参る頃から頂上に達した。階上で怪我した若者の看病をするそのまめまめしさ、動作の日本女らしさ、澄子は気がつかず地で行っている。階下では小泥棒共が、騒ぎ立てる。麻雀は彼等を籠絡して、可愛い眉太男を守らなければならない。そこで二階の踊場へ姿を現すと、愕然として、麻雀は自分が麻雀だったのを思い出したらしい。さて、とスワンソン張りにポーズし、眼瞬きの合図をし、シュラッギングをし、さも図太い女賊らしくテーブルに飛びのって一同をさしまねく。――そのうつり変りの間に、何とも云えず愛嬌があった。可愛ゆさに似たものがこぼれる。
 段々監督が箍《たが》をゆるめ、馬鹿らしいちゃりを入れ出したので、終りまで見る気がなくなったが、私はそこまで可なり愉快であった。けれども、
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