を目標として、工夫を凝すなら凝したい。
 茶道の名人達は、その感情を深く味到したのだろう。悲しい事に、今日東京に住む私共は、全然野生に放置された自然か、或は厭味にこねくられた庭か、而も前者はごく稀れにしか見られないと云う不運にあるのだ。

 ジョージ・ギッシングは、非常に困難な一生を送り、芸術家としても決して華やかな生涯は経験しなかった人らしいが、彼の作物のあるものの裡には、殆ど東洋的な静謐さ、敏感な内気な愛が漲っている。四季に分けて書かれたヘンリー・ライクロフトの私記と云う随筆集の中に、彼の庭園についての好みを書いてあるところがある。彼の心持が私には自分のもののように思えた。

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「庭掘りに来た善良な男は、私の特殊な好みの理由を明かにするに迷った。私は、自分の向ける彼の眼の中に、怪しみ考えに沈んで居るらしい表情があるのを屡認めた。理由は他でもない、私は普通あり来りな花壇を彼に作らせず、家の前の僅な地面だけを実にあっさり、装飾的に手入れさせたからである。

最初、彼は其を私がしわいからだと解したらしい。けれども、今では其が説明にならないのを知った。彼にはどうしても、私がしんから、誰でも夙[#「夙」に「ママ」の注記]かしがりそうにつまらない素朴な庭園が好きなのだと云うことが、信じられないのである。又、私は夙うから自分につけて説明することは断念して居る。彼は大方余り沢山な本や孤独な習慣の為に彼の所謂私の『理性』が少し如何うにかなって居るのだとでも結論したであろう。

私が愛する庭園の花は、ごく古風な薔薇、向日葵、はなあおい、百合などである。そして、私は此等の花が、野生のように繁って居るのを見たい。きちんと、均斉保った花壇は私の嫌いなものだ。そう云う花壇に植え込まれる大部分の花、――雑種で、ジョウンジアとかスヌクシアとでも云いそうに仰々しい名前の――は私の眼を傷める。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]〔一九二四年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「山陽新報」
   1924(大正13)年4月9、10日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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