る電車の方ばかりに目をつけている。買いものの紙包みを持ち、小さい子供の手を引いた婦人の口元や眼には殆ど必死らしい熱心さがある。気の利いた外国風の束髪で胸高に帯をしめ、彼女のカウンタアの前ではさぞ気位の高い売り子でありそうな娘が、急いで来たので息を弾ませ、子供らしく我知らず口を少しあけて雑踏する電車の窓を見上げるのなどを認めると、私は好意を感じ楽しかった。夕刊売子と並んで佇み、私は、
「さあいそがずに。気をつけて。――いそがずに気をつけて……」
と心の中で調子をとって呟くのであった。
 人々の押し合う様子は、もう三四十分のうちに、電車も何も無くなると思うようであった。最後の一人をのせ、最後の一台が出発し切ると、魔法で、花崗岩の敷石も、長い長い鉄の軌道もぐーいと持ち上ってぺらぺらと巻き納められてでもしまいそうだ。子供の時分外でどんなに夢中で遊んでいても、薄闇が這い出す頃になると、泣きたい程家が、家の暖かさが恋しくなった。あの心持、正直な稚い夜の恐怖が一寸の間、進化した筈の、慾ばりな大人の魂も無自覚のうちに掴むかと思う。それ故、貨物自動車が尨大な角ばった体じゅうを震動させながら、ゴウ、ゴウと癇癪を起し焦立つように警笛を鳴し立てても、他の時ほど憎らしくはない。自動車も家に帰りたい!
 このように、散歩で私はいろいろ楽しんだが、一つ困ることがあった。
 その困るものを見出すと、私は京橋の方から伊東屋の側を来て真直にライオンの前まで行けない。半丁ばかり手前で郵便局の側に移った。それから面倒な辻を抜けて目的地に辿り着く。お定りのそこから、あちらに、自分がよけて通った一つのものを見渡すのだ。
 一つのものというのは、珍しいものではない。遽しい通行人の波打つ帽子の水準から、一寸高く頂を擡げている一つの婦人帽である。その帽子は、他のどれものように、右側の流れに乗ってこちらの鋪道にも来なければ、左側の潮流に従って京橋の方へとも動かない。丁度、行く群集、来る群集が自ら作る境めの庭で、一二間の間を、前後左右に揉れて漂っているばかりだ。婦人帽の動くにつれ、微弱な、瞬間的な動揺が鋪道の人波の裡に起った。
 私は、その或る時は派手な紅色の、或る時は黒い鍔広の婦人帽の下に、細面の、下品ではないが※[#「うかんむり+婁」、読みは「やつ」、193−3]れた、神経質なロシア婦人の顔があるのを知っていた。彼
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