逸話を持たない人であった。私の心に甦って来る事々も、皆、祖母自身から聞かされた、第三者には何の興味もない世帯の苦労話ばかりだ。例えば、祖母の右の腕は力がなく重い物が持てなかったその訳とか、姑で辛い思いを堪えた追憶だとか。出入りの者などはそれさえ知るまい。ただ、丹精な、いつも仕事をしていた御隠居という印象が、大した情も伴わずあるだけなのだ。
二日目の通夜が、徐々朝になりかけて来ると、私は今日限りの別れが云いようなく惜まれて来た。早朝の寒い空気の中で御蝋燭を代え、暫く棺を見守り、父の処へ行った。私は疲れていたので、桐ケ谷には行かない予定に成っていたのだ。私は父に自分も先方まで送りたい願いを伝えた。願いは叶い、私は父と二人きりで祖母を最後の場所まで送った。棺は恐ろしく手早に火葬竈に入れられ、鉄扉が閉った。帰りの自動車の中で、涙が流れて仕方なかった。私はすぐくっついて腰かけている父に気づかれまいとして、そろそろ灯のつき始めた街路の方に顔を向け、涙を拭きもせず黙っていた。父は、少し来てから、親切に、
「寒くはないかい」
と訊き、膝かけの工合をなおしてくれた。父の声もうるんでいる。そしてやはり窓の外ばかり見ている。やがて、明に私の気を引立たせる積りで、彼は、飛び過て行く道路の上で目についた些細なことを捕えて活溌に喋り出した。間に軽い諧謔さえ混ぜる。おどけながら、父は頻りに手巾を出して鼻をかんだ。その度に、やっと笑っている私は、幾度か歔り上げて泣き出しそうに成った。
翌日、御骨は羽二重の布に包まれて戻って来た。それを広間の祭壇に祀り、向い合って坐っているうちに、私は生きている祖母と隠居所ででもさし向いでいるような、親しい暖かさが、胸に充ち拡るのを感じた。背後には、午後の冬日がさしている。畳廊下の向うの硝子に、祭壇の燃える蝋燭の二ツの焔が微に揺れながら映っていた。二本の燭はこれも一隅が映っている白い包みを左右から護って、枯れた辛夷《こぶし》の梢越しに、晴れやかに碧い大空でゆらめいているように見えた。
[#地付き]〔一九二五年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「文
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング