に、確乎性をもって歴史的な眼から行われ難い。船が難破しかかったとき、最後にその船を転覆させて自分たちの命もすてさせてしまうのは、舷の傾いた方へ我を失って塊りすがりつく未訓練な乗客の重量である。その通りのことが生じて来る。批判は発展的にされず、対比的にされる。ああではない、だからこう、と、一方へぐっと傾く。これまで、民衆を指導するなどと考えていたのは烏滸《おこ》の沙汰である。先ず自分から民衆の一人となって、その日常の内へ入って、しかる後云々ということが、違った形での民衆性へのエキゾチシズム、感傷、自分の意識人としての本質の放棄としてあらわれて来るのである。
「収獲以前」は、上に述べたような作者の知識人としての内的推移の跡を語っている。そして、この特色的な生活態度における方向の放棄の傾向は、最近舟橋聖一氏の「新胎」という小説の結尾にもあらわれている。「新胎」では、この作者によって一二年前提唱された能動精神、行動主義の今日の姿として、実力養成を名とする現実への妥協、一般的父性の歓喜というようなものが主流としてあらわれて来ているのである。
 青野季吉氏が、近頃『文学界』を中心としていわれている政治主義、文学主義の問題にふれて最近書かれている論文の内で、「民衆の真実」から出発するという表現で、自身の拠りどころを語ろうとしていることも様々の感想を刺戟することである。山本有三氏に「真実一路」という小説がある。これの映画は多くの女を泣かせた。そして検閲料免除になった。だが、あの小説を読んだ真面目な読者は、作者が告げようとしている「真実」の内容が具体的にはっきりしていないことに、苦痛を感じたのであった。青野氏が抒情的な筆致で「民衆の真実」をとりあげた場合、一般化していわれる民衆という言葉は、一般化して云われる真実とひとしくほんとに抽象名詞であるという感がふかい。民衆の真実は何であろうかと思わずにはいられないのが活きた今日の人情なのである。
 大衆の中の進歩的要素と知識人が、懺悔的な悔恨的な感傷で大衆を一般化して考え、それに対し勝な昨今の弱点を餌として、三木清氏のような全体的の哲学が闊歩するのであるし、亀井貫一郎氏の速記録改竄問題をひきおこすのである。
 ヒューマニズムは、無方向な人間性全体主義の別名ではない。今日、ヒューマニズムがトルストイの人道主義でも、ニイチェの達人主義でもあり得
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