しい。
 しかし、そのことと「悪罵」とは明らかに区別されるべきであると思う。悪罵とは、討論の対手に対して、個人的罵倒即ち「眼鏡をかけた雌蛙」だとか、例えば「尻尾のない雄鶏」だとか云うことであって、これは作品評として、科学的内容の不正確な形容詞をつかうことと同じことではないのである。
 それにつけても、同志藤森、林によって腹癒せ風に個人的非難が加えられたのみで、論文の基本的な点にふれての科学的究明による批判がいささかもなされなかったことは、遺憾である。何故ならば、「一連の非プロレタリア的作品」についてのみならず、われわれが互に発展するためには、客観的真理をわれわれの目前により明確にあばき出さなければならず、科学性の欠如そのものによってひき起された誤謬を証明するためには、常により正確な科学的方法が発動させられなければならない。
 発展はこのようにしてなされる。いい気持で、傲慢な罵倒をしているのは小ブルの自己満足であるといわれても、筆者がもし、自己満足のためにそれを執筆せず、傲慢を志してもいない時、それは批判者並びに筆者にとって、何らの発展をももたらさないであろう。
 同志林の「眼鏡をかけた
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