らしい――。
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イオイナの使者、一片の花弁のように軽く、女神の傍に降る。
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使者 およろこび下さい。女神様。そろそろ貴女のお力の効験《しるし》が現れて来ました。災厄が余り突然やって来たので、人間の微妙な精神の歯車も大分痛められました。あれほど感情の鋭い者達が、本当に涙もこぼさず、獣のように狂い喚いていた有様は思い出しても恐ろしいが。――(一粒のキラキラ金剛石のように輝く露を示す。)御覧下さいこれは、始めて人間がしん[#「しん」に傍点]からこぼした嬉し涙の一雫です。互に求め合い、思い合っていた血縁、愛人達、誼《よしみ》の深い友達共が、はっと息災な眼を見合わせた刹那、思わずおとした一滴です。
イオイナ まあ美しいこと。曇もない。かえしておやり、返しておやり。これは勤勉の根に注ぐ比類のない滋液です。
使者 それから、申すも楽しいのは、今朝一人の幼児が、母の懐に抱かれながら太陽を仰見て、からからと笑いました。傍にいた男女や年寄も、同じ方を見上げてほほえみました。
イオイナ おお、嬉しいことの二つ。――私の胸がすがすがしく、白衣の囲りにかがよう陽炎《かげろう》のような光が一層晴やかなのも訳のないことではなかった。それから? 私は、人間の長い、真面目な、忍耐強い生活の話になると、此処に眠っている神々に負けない貪慾なききたがりやになるのです。
使者 男でも女でも、安閑としているものはありません。列を作って、地道な蟻のように、廃墟の地ならしにとりかかりました。それに(声を低め)この神々が、人間の精神まで殺し終おせたように云われたのはまるで事実とは違う間違いですね。学舎の壁は火で煤け、天井はやっと夜露を凌ぐばかりだが学者達は半片の紙、半こわれの検微鏡を奇蹟のように働かせて、真理へ一歩迫ろうとしています。
イオイナ そうだろう。――そうなければなりません。そして、私の忠実な僕《しもべ》の芸術家達は、巫女のような洞察で天と人類とのゆきさつを感じ、様々な形で生存の真髄を書きとめ刻みつけ彩って行くのです。……さあ、それでは出かけて、もう一まわり、独特な鼓舞で励ましておやり。仕事は辛い。なかなか容易には捗取らない。そこへ、お前が、耀《ひかり》の翼で触ってやると、人間は、五月の樫が朝露に会ったように、活々と若く、甦るのです。
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(使者去る)
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イオイナ ――神々は、私が余り人間の味方をすると云って憤られる。……けれども、あの、蝎《さそり》の毒でも死ぬように果敢ない肉体を持ちながら、精神ばかりは高貴な、不壊な者たちをどうして痛おしまずに居られよう。私には母の本能がある。自分の最初の形代人間が、渾沌から渾沌に亙る雄大な認識と、音楽のように豊かな複雑な感情を持ちながら、神が絶対を示そうとする運命に圧せられきる有様を、平然と見ては居られないのです。
  ああ此処でも、遙かな雲に遮られてはいるが、彼等の精神と意力のそよぎが感じられるようだ。ああ人間たち! 本当に、諸神が昔パンドーラに種々の贈物をされた時、私が何心なく希望を匣《はこ》の下積みに投げ入れたのはよいことであった。
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(歩み去りながら)
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  行って東風に頼んで来よう。少しはっきり下界の音を運びすぎる。――おやすみなさい、神々。(諧謔的に)今貴方がたの睡って被居るのは、私が醒てるより人間達のよろこびでしょう。(去る)
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ヴィンダーブラ、この時、悪夢に襲われたように低い呻き声を発して目を半ば醒す。そして、暫く不安げに四辺を見廻し、やがて寝ころんでいるミーダの方にのろのろ這いよって行く。[#地から1字上げ]〔一九二四年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「週刊朝日」
   1924(大正13)年1月1日号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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