入った。それを使って安心していたら、去年の煙草値上げ前後から紙質が急に悪くなった。元のと比べて見ると、枠の横もつまり、余白もせまくなり、判全体がほんのすこしずつ縮んでいる。私はいやな気がした。盛文堂では、この頃売込んだので質を悪くしたと思った。そのことを仲つぎしている若い人に話したら、その男も「ハア、そうですか。この分のは紙がわるくなっていると矢張りよそさんから苦情が出ております」と小頸を傾けた。二日ばかりして、また来ていうことには、「どうも弱りました。製紙会社が合同して王子へ独占になったような形なので、競争がなくなったもんですから、一般に紙質をわるくしてしまったんだそうです。同じ名や番号の紙でもやっぱり質は下って来ているんで、どうも……」と頸のうしろへ手を当てた。
 丸善の原稿紙は紙はよいが、型の小ささやインクの色などがアカデミックで、私たち向きの小説向きでない。きっと益々紙の質は、わるくなる世の中だろうと思っている。

        三 きのうの相場

 一月の中ごろに、引越しをして小さな家を持った。これまで家を持たなかったわけではないから、いろいろな世帯道具は大体古くからのがあったが、鍋や釜、火箸、金じゃくし、灰ふるい、五徳、やかんの類は、そう大していいものをつかっていた訳もないので、みんなどっかへとんでしまったり、悪くなったりしていて役に立たない。引越しの手伝いをしてくれた女のひとが、さし当りの入用品として、それらの品物を近所でそろえてくれた。かえって来て、釜、庖丁の類を私の前に並べ「マア、おっかないみたいなもんですよ。このお釜は、きのうの相場なんですって」といった。鉄類は一日一日、朝と夜とで相場が高くなって来ている。特別勉強してこの釜だけはきのうの相場で売って上げるというわけなのであった。このお釜は大きすぎるんじゃないのかしらといったら、その女のひとは真剣な目づかいで、だって、もしあなた、今に大きいのがいるったって、これから先どんなことになるか知れたもんじゃありませんから、これ位のがいいんですよ、というのであった。
 雪じるしのバタが半ポンドについて十銭あがりました。牛肉も相すみませんが今年から一斤について十銭あがります。パン値上げお知らせ。白菜は一株について四十銭ですよ。どうぞそのおつもりでお香物もあがって下さい。
 私が初めて世帯をもったのは、丁度ヨーロッパ大戦が終ってほどない時代であった。初めて女房の心持で、白砂糖を買ったら、何でも一斤五十銭の上した。私はおどろいて、一体どうして暮して行くのだろうかと考え考え、小っぽけな砂糖袋をもって、お七で有名な吉祥寺の前の春の通りを歩いて行ったことを覚えている。その頃は刺身が一人前五十銭であった。
 喫茶店をやっている人が来て、近々その店を閉めて、子供の予習所にするという話をした。砂糖その他が高くなって、今まで十銭のコーヒーであったのを十五銭にしなければ合わなくなった。喫茶店で出すマッチね、あれは紙なしで――表紙に貼ってあるペーパーなしで、千箱入三円三十銭だったのが四円になったんだから、参りますよ。煙草の増税で二千万円ばかり収入があったそうだが、七割はバットだってね。バットは一個について一銭だから、率は一等すけないみたいなんだが、何しろ皆が喫うもんだから。――考えたもんだね。といいながらそのひとは自分もバットの吸いがらを、唇をやきそうなところまで無理してふかしているのであった。
 去年の秋から暮にかけて、恋愛論が大分流行して、ものの分った女のひとたちが、それについて随分論じた。一方で、食うもの、住むもの、著るものが騰る、騰るといわれ、一方で恋愛論花咲き、私は何かそこに簡単にいい切れぬ苦しい感情を犇々《ひしひし》と抱くのであった。
[#地付き]〔一九三七年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「東京日日新聞」
   1937(昭和12)年2月9〜11日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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