いう切迫した事態に立ち至ったとき、或る区に食糧管理委員会が出来て、板橋でやったように、どこかに隠匿されている食糧を発見し、ああいう風に特配したとする。その場合、警視庁は、その方法を適当と認めていないのであるから、何かの形で取締ろうとするであろう。そんな場合の民衆が、単純に取締られるものでないことは、ひとも我も知っている。小競りあいも、空腹が先に立っておれば、荒々しくなりかねない。双方が力ずくになったと仮定して、そのごたごたはどういう法律上の行動として呼ばれるのだろうか。このことを、私たちは、十分の上にも十分、考えめぐらして見なければならない。
 市民が、食糧問題にからんで、ごたついたとき、当局が、それに対して名づける罪名に事欠いていようとは、決して決して思われない。
 法律だけで、現実の辛苦は解決しないから、その対象となった市民たちは、勿論承服しかねるのだが、そこに人間の心理の機微がある。承服しない市民の感情が、どこに向うだろう。真直《まっすぐ》、実際の責任者である政府、支配権力に向うだろうか。そこまで万遍なく明快であろうか。まだまだそこまでが一般水準とは言えない。どうも、百姓が米を出さないからじゃないか、というところへ流れよりそうである。
 そうなったとき、農村ではどうかと想像してみる。農村とても、決して平穏に彼等の拒絶をしかねているであろう。当然、ごたつく。その結果、次の当然として、強制買上供出としての強権以外の強権が発動するだろう。あちらも、こちらも、大ごたつきに揉めて、つづまるところは、何かと云えば、それを、きっかけとして、農村では農民の自主的な組織や活動が圧殺され、都会では市民が所謂《いわゆる》鎮圧されてしまう。やっと全人民が一歩をふみ出した民主の試みは、二歩と歩まぬうちに、まことに見事に、旧勢力である反動政府のもくろみどおり、足を折り、手をもがれて、人民はまたもや、自分の声を失ってしまうのである。そういう不幸がおこったとき、最悪の点は、農村人と都会人との感情の疎隔である。この疎隔さえあれば、支配権力にとってこわいことはない。何故なら、人民の結集する能力は、最も根本で二つに裂かれてしまうのであるから。
 このような考えのめぐらしかたは、或人にとって、あまり裏まで穿ちすぎた辛辣さと思えるかもしれない。けれども、決して穿ちすぎではない。今日の現実の内包している
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