これらの人間として当然な理性の主張は、「外界と人間の衝動の中にあとづけることによって」可能だったのだろうか。告発文の違法や非真実性は、人間の衝動の中にあとづけられたのではなかったろうと思う。
 思えば不思議なことである。現代文学は、衝動という言葉に、理性のやみがたい抵抗と、その行為までを、包括しようとしているのだろうか。
 伊藤整が、「美という仮りの[#「仮りの」に傍点]調和体をつくることしかできない」日本の文学者の運命をいうとき、その文脈の底には、「日本の文学は日本そのものの反映なのだ」「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたず感覚によるのだ」という、きょうではもう半過去になりつつある事実に執しすぎているために、感傷をさけがたい知性の響きがある。「美という仮りの[#「仮りの」に傍点]調和体」というとき、この文学者は、仮りでない美が人類のうちにあることを知覚しているのだ。こんにちの世界文学の状況において、「仮りの調和体」とことなった強壮な、人類に根ざした美は、外国作家の文学の中にしかあり得ないとするならば、それは、日本という島の国が面している明日の運命について、あまりに単純な見かただ
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