、私はそれぞれを興味ふかく読んだのであった。呂赫若氏の「牛車」は、植民地作家の作品として、前々号の「新聞配達夫」をも思い起させた。「牛車」を作品全体の効果という点から見ると、細部を形象化するための努力をもって描写が行われているが、読者の心を打つ力では、一見より未熟な手法で書かれていた「新聞配達夫」がまさっていたと思われる。「牛車」によって深く感銘を受けた点は他にあった。これら植民地の人々は〔一六字伏字〕(復元不可能)数十年来苦痛の歳月を経つつあるのであるが、現実は皮肉で、今やかつてひとのものであった日本語は植民地大衆の言葉となって、より広汎な日本の勤労大衆の胸にも伝りながら作品ともなってその思いを発露するに至っているという事実である。ウクライナ文学の発展の足どりも思い合わされる。われわれは、心から植民地における進歩的作家の擡頭をよろこぶものである。
片岡鉄兵氏のある正義感を感じさせる「回顧」が、作者の病気で十分芸術化されなかったのは残念である。原口清という主人公の行動をもっと客観的に、さまざまの具体的モメントに現れるその性格の観察描写をふくめて描かれたら、小説として立体的になったので
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