て、長谷川「歎異鈔なんか拝読いたしますと『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』と書いてありますから、吾々共産党だった者でも努力をすれば救われるでしょうか」という質問を出している。この実例は、文化面においてないがしろにできぬ問題に向ってわれわれの注意をうながすのである。
地方で発行されている諸文学雑誌について最も示唆にとんだ現象と思われた点は、それぞれの雑誌が、三十頁、七十頁の間にはっきりとその地方都市における編輯活動家たちの社会性、あるいは階級的活動の方面などを反映していることであった。『関西文学』の大月桓志氏、大元清二郎氏などの小説を読むと、そのことがつよく感じられる。大阪という近代都市の勤労大衆の生活は豊富な現実の内容をもっていて、例えば大月氏の小説に「性格」とは、おのずから違った題材の可能を語っているのではなかろうか。われわれの文学において、題材だけで作品の価値が決定せられるということはないのであるけれども、現在の情勢との闘いにおいて、われわれの文学を健全な発展へ導こうとすれば、『文学評論』の座談会で沼田氏その他が強調しているように、作家の目は常に労働者農民、一般勤労生活者の一見平凡な、しかも巨大な歴史性の上にいとなまれている生活の、芸術的再現に向ってそそがれるべきであろうと考えられた。
『郷土』創刊号の編輯は『関西文学』とは違ったジャーナリスティックな性質において都会的である。が、雑文「瓦職仁儀」や創作「養蚕地帯の秋」などは、地方の生産、それとの関係においての人々を描き、興味があった。文学のひろびろとした発展のために無規準な地方色の偏重は不健全におちいるのであるが、その地方の生産に結びついている大衆の文学的欲求とその表現とがより潤沢に包括されればされるほど、その雑誌は文学の中に地方の現実の着実な観察を反映するものとなって、その地方の読者をよろこばせるばかりでなく、他地方の読者を益することも多くなって来る。
そういう意味で『鋲』『文芸街』の作品、『主潮』の詩「落穂ひろい」小説「中農の伜」「違反」「雑草」など、作品としてはいろいろの未熟さその他の問題をふくんでいるとしても、作品が生活から遊離していない点でやはり読者の心をひくものをもっていると思う。
終りにのぞみ、何心なく『文芸街』の頁を繰っていたら『九州文化』などいう雑誌の名も見え、東京で発行され
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