前にあるのとは異ったプランで、この本の準備をされたらしい。現在の主篇を第一篇西洋として、第二篇に東洋の歴史をとりあげ、第三篇には婦人の解放史をとりあげられるつもりであったらしい。ところが、この本では枚数とそのほかの理由で、社会思想前史[#「前史」に傍点]ともいうべき内容にとどめられた。東洋、婦人の部分は著者によってふれられ得なかったのである。
この種の本の読者として、私は謂わば最も初歩者の一人である。それ故、引用されている多くの古典についても批評を加える力は持っていないが、著者が忠実にその出典を明らかにしている態度には、親切さを感じた。
古代奴隷社会を説きつつ、この著者が、昨今日本の反動的な一部の文芸家によって極めて悪質に利用されている「経済学批判の序論」の末尾でマルクスがギリシャ芸術の「順当な[#「順当な」に傍点]」達成にふれて云っている言葉を、決してマルクス自身「絶対的に美化していないこと」その段階を人類史の大局からはマルクス自身が「未成熟」とし「二度と再び帰らぬ」ことを強調していることを論じている点など、単な[#ママ]思想史には見出されないプラスである。ウィットフォーゲルの「市民社会史」の訳者であるこの著者によって描かれている主篇第三、第四は全巻中最も興味ふかく且つ豊富な部分なのであるけれども、この部分が有益であり面白ければ面白い程私は一層つよく或る残念さを感じた。それは、著者が最初のプランを実現し得なくなったために、かくも面白いヨーロッパ近代社会成立の過程に日本のその時代の歴史的相貌を対照されていないことの憾《うら》みである。東洋の足どりをその大略に於てとり入れることは果して絶対に不可能であったろうか。特に今日の東半球の波瀾は、読者の心に渇望に近いその要求を呼びさましているのである。
私たちの常識が受けている苦痛は、過去の歴史が、いつも地球を西と東とにわけて語られている点である。東西を一貫し互に照応し合う歴史的現実として綜合的に掴んで示されていないことにある。この本の著者の人間的感情と世界観とは、西と東との区分を踏襲しようとする保守性などを持たないことは自明である。もしこの次にこの種の労作が期待されるのであったら、一読者の希望として、東洋をありきたりの東洋篇に分けず、東西相照し合う立体的関係に於て、この社会運動思想史の裡に綯《な》いまぜて、東洋の断面を
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