この例でもわかるように、闘争的プロレタリアートは諷刺にしろ、自嘲は欲しない。建設的諷刺が欲しいのである。
 ハッハッハアと笑って、ようし、やるぞ! という元気のいいのがほしいのである。
 諷刺文学、朗らかで、見通しをもったプロレタリア諷刺文学をどうこしらえるかということはソヴェトでもまだ宿題だ。
 いわゆるユーモア文学の作家にはゾーシチェンコなどという人もいる。これは、古いロシアと新しいソヴェト生活のむじゅんから生ずる滑稽を、毒のない笑話という程度でまとめる。自己批判というキッとしたところのある笑いではない。
 こう書いて来て思うのだが、プロレタリアの力がのびてくるにつれ、諷刺の形式をとった文学は段々小型になって、ますます流動性せん動性をもって来るのではないだろうか。
 もうこれからはゴーゴリの作品のような型で諷刺する諷刺文学は、プロレタリア文学の領域からは出ないのが当然だ。例えば「死せる魂」は傑作だが、プロレタリア的観点から農民はああ見られただけではすまない。それを書けば、諷刺より極めて弁証法的に扱われたリアリズムの小説になってしまう。
 諷刺文学はいわばプロレタリア文学の行動隊である。
 形は小さいが、活々したモーメントを批判し、到るところで、いろんな形で、敵の攻撃と自己批判をやってゆく、独特な文化的武器となるに違いないのである。
 現に移動劇場の仕事は、よくこの諷刺文学の、小粒な活力を利用してわれわれに見せている。
 作家がそういう小粒で便利な武器をどうしてドシドシ作れるか? ほんとに大衆と職場の動きを知らなければならないということになるのである。[#地付き]〔一九三一年七月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「東京朝日新聞」
   1931(昭和6)年7月1〜3日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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