た時代のドストイェフスキーの世界は、何を与えるだろう。しかし、偶然は、そういう作品をも或る休みの日の夜、人々の手にとらせるのだ。その人は、何の気もなしに読む。そして何と思うだろう。どんな感じがしただろう。
 勤労して生きるすべての人の新しい文学の胎動と可能のめざめは、この単純な、どんな感じがしたか[#「どんな感じがしたか」に傍点]、というところに源泉をもっているのである。読ますことは読ますが、どうも。そういう感じもある。ドストイェフスキーってなるほど大したものらしいが、しかし、カラマゾフの世界が、これからの現実に再びあるとしたらどうだろう。社会の歴史は、どっち向きに動くはずのものなんだろう。そういう疑問もあり得る。
 どれも、文学の作品批評とは云えないかもしれない。そんなにまとまってはいない。だけれども、どだい文学というものは、非常に複雑な世界の底を、びっくりするほど単純で、しかもまじりけないもので支えられているのがその本質である。それは、どうしてだろう? という疑問と、何故? という問いかけである。バルザックの世界、トルストイの世界、小林多喜二の世界の底に、一つの、どうして? が存在する。この根本的な疑問を、それぞれの作家が、どんな歴史の見かたで、どんな歴史のなかで、どんな階級の人として、どんな方法で追究し、芸術化して行ったかが、作品形成の一つの過程である。
 きょう作品を読む人々は、自分が現代の日本の現実の中に働いて生きるものとして生きているという社会的な本質にたって、まともに生きようと欲している、という人生のテーマと、そこにある感覚をしっかりもって、ふれる文学作品の一つ一つについて、心にひきおこされる直感的な判断を大切に保って、それを社会的に文学的に成長しつつ深め展開させて行ってこそ、はじめて、その人としての文学が生れるめど[#「めど」に傍点]がつかまれて来る。そういう心でよんでみれば、古典から現代作家の、国内国外のあらゆる作家が、それぞれに見事な業績をのこしながらも、ほんとに自分の云いたいこと、あらわしてみたい心、描きたい情景だけは、誰もかいていないことを見出して、どんなおどろきと、新しい世界の発見にうたれるだろう。
 多くの文学作品をよんだあと、人はやがて自分で書くようになる、という事実は、決してただ書きかたがわかった結果ではない。他の人々が精神こめて、一
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング