分に心の深められていなかった鉄則に屈することが、描かれているのである。
片岡氏は、当時のブルジョア道徳が逆宣伝的に、階級闘争に従う前衛のはなはだしく困難な生活の中に、不可避的に起ったさまざまの恋愛錯雑を嘲笑したのに対し、抗議としてこの小説を書かれた。そのことは、同じ小説の中の文句でもはっきり宣言せられているのであるが、今私たちがこの小説を読むと、何か一口にいい表わせぬ深い感慨に打たれざるを得ないのである。
この小説の書かれた時代でさえも、まだ個人の感情[#「個人の感情」に傍点]や個人生活の利害[#「個人生活の利害」に傍点]が、階級の感情や利害と一応きりはなされ、ある種の活動家にとっては別個なもののように考えられ得る時代であったこと、また、プロレタリアの世界観は、現実の問題として、階級対立の社会にあっては支配階級のイデオロギーの侵害を多く受けているものであり、特に日本のように封建性の重いきずなが男女を圧しているところでは、女の性的受動性、男に対する自主的な選択権が隷属的に考えられる習俗をもっているのであるから、新しい社会の建設者たちの努力は、運動内部においても絶えずさまざまの形で作用する、そういう過去の残滓との闘いの面にも払われなければならないものである。そのことを「愛情の問題」において作者が念頭に置かない一般の情勢であったこと、それらが私たちの心をまじめな感想にひきこむのである。
種々のゆがみをもちつつ、献身的な努力でともかく今日まで押しすすめられて来た運動の段階にあって、私たちは大きい成果の上に生きていると思う。
時間的に四五年といえば短かいがその間急速に激化した闘争は、広い範囲で運動内における女の活動家をも増大させ、実際の感情として、個人の感情利害と階級の感情利害とは、一致せざるを得ないところまで具体的な条件において高められて来ている。かつて長谷川如是閑氏は、個人的感情を階級の義務の前に殉ぜしめることを主題としたプロレタリア文学に対して、「新しいつもりか知らぬが、義理のしがらみに身をせめられる義太夫のさわりと大差ない」という意味の評をしたことがある。私はその言葉を心に印されて今なお記憶しているのであるけれども、そのような批評を可能ならしめた、階級感情の小市民的分裂は、この二三年間の画期的鍛錬によって、一般的に統一の方向にむかい、もとの低さに止ってはいない
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