であった。そして、明治維新という不具なブルジョア革命は、事実ヨーロッパにおけるように市民による革命ではなくて、下級武士とその領主たちが、一部にふるいものをひきずったままでの近代資本主義社会への移行であった。明治維新の誰でも知っているこういう特質は、「四民平等」となって、ふるい士農工商の身分制を一応とりさったようでも、数百年にわたった「身分」の痕跡は、人民生活のなかに強くのこりつづけた。明治文学の中期、樋口一葉や紅葉その他の作品に、「もとは、れっきとした士族」という言葉が不思議と思われずに使われている。この身分感は、こんにち肉体文学はじめ世相のいたるところにある斜陽族趣味にまで投影して来ているのである。
 日本の大学、なかでも帝大といわれた帝国大学は、明治以来のそういう日本的な伝統のなかで、どこよりもふるい力に影響されていたところではなかったろうか。帝大とよばれた時代でも学力と学資があれば、もちろん、士族、平民という戸籍上の差別が入学者の資格を左右するものではなかった。しかし、日本のあらゆる官僚機構と学界のすべての分野に植えこまれている学閥の威力は、帝大法科出身者と日大の法科出身者とを、
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