どうであろうかと思った。自分の直覚はどの程度まで真実なものだろう。また、良人は、彼の心の眼で、自分の心のどの辺までを見とおし、同じ感情や意慾を反射するだろうか。
さよは、これまで持たなかった自覚を以て、深く深く自分と良人との心の風景を跋渉して見たく思い始めた。云いかえると、今まで我知らず勢にのって流されて来た二つの心の河の河底まで潜って、満干の有様、淀の在場所、渦の工合を目のあたり見たら、と思い出したのであった。
月の光に馴れたさよの瞳に、戻りついた家の電燈の色がひどく赤黄く、暑く、澱んで見えた。
保夫は、
「家へ入るといやに蒸すね」
と、ひやした麦湯を所望した。さよは、盆にのせてそれを良人にすすめ、彼が仰向いてすっかりコップを空にする様子を見守った。彼女はひとりでに微笑んだ。彼女は、良人の知らない心の望楼を、今夜のうちに拵えた。そこの覗き穴から見ると、麦湯を呑みながら彼の心が何と呟いているか、はっきり判るように思ったからであった。然し、保夫が、
「何? 何を笑っているの」
と尋ねると、彼女は子供が玩具をかくすように、新しい計画を心の奥にたくしこんだ。そして、猜《ずる》く、嬉しそうに、黙って頭を振り眼の裡で笑った。
三
保夫の側から見ると、さよは近頃特に濃やかに気の利く妻となって来た。
彼女は、一つでも、未だ口に出して云われない彼の希望や要求を察して、仕とげたのを発見すると、ひどく忻《よろこ》んだ。普通妻が、良人の満足を見て自分も好い心持になるという以上のものが、さよにはあった。彼女にとって、そのことが出来たのは――保夫が、
「ほう、あるね。実はもうそろそろ買って来なければいけないと思っていたんだが」と、新しいオー・ド・コローンの瓶を手にとるのを見るのは――つまり自分の感じが間違ってはいなかった証拠であった。さよはそこから二重の嬉しさを得たのである。
時によると、また、彼女は何か云い出そうとする保夫の口先を、
「あ、一寸待って。云わないで、云わないで」と、あわてて遮ることがあった。夕飯後、彼等は定って八時頃まで雑談した。夕暮の気持よい日には縁側に並んで腰をかけたり、庭をぶらついたりしながら。――そういう時、話の続きを中絶させて、さよは熱心に、
「あ! 一寸待って」
を叫ぶのであった。保夫は、兵児帯の後に両手をさし込んだまま、訝しそうに彼女を顧る。
「何故?」
「――その先は私が云うの」
さよは、良人の顔から眼を離さず説明した。
「私がね、貴方がきっとこうおっしゃるだろうと思うことを云うの。当ったか当らないか、正直に教えて頂戴」
そこで、さよはもったいぶり、場合によっては、
「――省――課書記官谷保夫は、今、彼の従弟の就職について云々」
と、冗談を混ぜて良人の考えや心持を話した。保夫は本気にならず、
「莫迦《ばか》」
と苦笑しながらも、さよによって読みあげられる彼の考えというものに耳を借した。さよは、妙に真剣で、頭の奥から糸でも繰り出すような眼付で話しながら、少しあやふやなところに来ると、
「そうじゃあなくって? 違って? まるで違うこと?」
と念を押す。全然見当の脱れた時、保夫はさも面白そうに高笑いした。そして、遠慮なく、
「莫迦《ばか》」
を連発して彼女を揶揄《やゆ》した。さよは、額の隅を掻いて敗亡を示した。当がはずれても、結局食後の座興として決して不適当なものではない。然し、十中七八まで保夫は彼女の言葉を正面から否定はしなかった。その代り、はっきり承認もしない。彼は、にやにやしながら、
「まあそう思うならそうして置くさ」
と云うのであった。
この当て役が反対に保夫に振りつけられると、二人の会話は、さよがその役を持った時ほど快活に、熱をもっては進まなかった。
彼女は良人に注文するだろう。
「きのう吉村さんがいらしった時ね、私、あの方について感じたことがあるのです。何だとお思いになって? 鈴木さんと比較して――当てて頂戴」
保夫は、気も乗らなそうに煙草の烟《けむり》を吹いた。
「何の稽古が始るのかい。――吉村について感じたって……漠然としすぎて問題になりゃあしないよ」
さよは、良人に興味を持たせたく、一生懸命に云った。
「吉村さんと鈴木さんとは同じ実業家でしょう。実業家といっても二人は実業につく動機がまるで異うと思ったの、そのこと――」
「厄介なことになったな」
保夫は間に合わせな答をした。
「第一、男の見た男と、女の見た男とは大分違うよ」
「いやな方!」
さよは、酸いような笑いを笑った。
「違うからこそ当てて頂戴と申上るのよ。あの二人は性格が随分異っているでしょう、その違いを私がどう感じたかということなのよ」
「さあ――大体何だろう、鈴木は神経質で、考え出すと眠れないという方だが、吉村はずっと太っ腹だろうな。大損をしてハッハッハッと笑うのは、吉村でなけりゃあ出来ない芸当だろうな」
さよは、詰らなそうに良人を見た。彼女は諦めきれない風でつけ足した。
「私の云った要点とまるで違ってよ、それは」
「だって彼奴の性格はそうだよ。事実だから仕様がない」
さよは黙り込んだ。彼女は何ともいえない物足りなさと淋しさとを感じた。せっかく一心に矢を射いても、いざというところで的がくらりと斜かいになり、徒に流れ矢となって落ちてしまう。さよは、せめてかっちり、要点だけは受けとめて欲しかった。返事は間違ってもよいから「お前のことだからこうでも思っただろう」というところから発足しなければ、焦点が合わないということ位、鋭く感じて欲しかった。
「この空虚な喰い違いを、何とも感じないのだろうか!」さよは、心の裏に寒さを覚えながら、愕き慍って良人の顔を見なおした。
最初は、相当愛嬌をもって始められた当てっこ、さよの云う心の跋渉は、時が経つにつれ、次第に感情の複雑さを増した。同時に、幾分残酷なものにもなって来た。彼女は、これ迄、好い人というぼんやりした一つの型にはめて安心していた良人の性格を、自然細かに調べる機会を与えられた。そして、親達が、配偶として第一の条件のように云って聞かせてくれた好い人というものが、決して性格として頼れる面白いものでもなければ、まして自分が描いているように、溌溂と熱意ある生活の幸福などは、到底期待出来そうもなく思われ出したのであった。
さよは、当てっこの奥に暗く凄い何かが募って来るのを感じた。彼女は、何気なく夕飯後、夕刊を見ている良人に云いかける。
「今日沢口の伯母様がいらっしゃってよ」
「ほう。何だって?」
「また幸雄さんのことをこぼしていらしったわ。あの人にも困るって。先達っての話は、自分から行って断ったのですって……」
さよは、注意深く保夫の返事を待った。幸雄は従弟で、彼はその兄役をしていた。
「贅沢だな。この就職難のとき自分からいいくちを断るなんて……」
保夫が、自分の予期通りのことを、呑気に云うのを見ると、さよは焦立たしさと悲しさとを同時に感じた。彼女は、複雑に、意地悪く動く自分の心持を、惨めに自覚しながら云った。
「伯母様に申上て置いたわ。今度幸雄さんがいらっしゃったら、きッと保夫がよくお話しするでしょうって。――そうでしょう? 貴方幸雄さんに、伯母さんを早く安心させるもんだよっておっしゃるでしょう?」
保夫は、機械的に答えた。
「云わなくちゃあなるまい。――せっかく理財科まで出て遊んでいるのももったいないからな」
さよは、「何故そんな上っ面で安心? どうしてもう一皮、幸雄さんの心持の下まで切り下げないで安心なのだろう!」という、歯痒い歯痒い心持を、やっと、
「幸雄さんはいい従兄を持って仕合わせね」
という皮肉に洩した。
けれども、保夫は、彼の傍で、さよが、どんな感情に煮え立ち、それをどんな心持で制しているかは、まるで感じないように見えた。彼は苦労も不安もないらしく、艶の好い、型通り青年紳士の顔を、悠々居間の灯の下に浮上らせているのだ。――
彼女が指先に絡めて編んでいた絹糸のように、慎ましく輝き、滑らかであった生活は、少くともさよの心の内で変化した。彼女は、良人と自分との調和ある沈黙の頷き合いは、散歩に出ようか出まいかということ、二人共が丁度同じ時番茶を飲みたいと思うこと等以外に、果してどこまで深く連絡があるかひどく疑わしい心持に、結婚後始めて逢着したのであった。
四
四辺はもう六月であった。
さよは、独りになると、いよいよ濃い青葉のちらちらする縁側に出、鮮やかな紫陽花の若葉の色だの、ガラス鉢の水を緋や白に照して泳ぎ廻る金魚だのを眺めながら、種々な考えに耽った。
これほど心を捕われることから見ても、さよは、自分がどの位良人に執着しているか、はっきり解った。けれども、何故執着しているのか。愛しているから。それなら彼のどこを何を愛しているのかと自問自答して行くと、彼女は、苦しい心持になった。良人と切りはなせない絆を感じる心持と、彼の物足りなさ、詰らなさ、自分の求めるものが決して彼の裡にはないという事実とは、彼女の心の裡で厳然と対立した。さよにとって悲しいことは、これ等の気持を、洗いざらい良人に打ち明けられないことであった。黙って、独りで何か解答を見出さなければならない。それも、二人でではなく、自分だけが何とか変化しなければならない――さよは、保夫が彼自身の平々凡々にはまるで気がつかないのを知っていた。また、彼女が何とか云ったところで、決して素直に十七八の青年のように自らを顧みて涙を落すような質でもないのを知っていた。保夫は、さよから見ると、かんじきを足につけて生れて来た人のように思えた。かんじきは、どんな深い雪の上を歩いても、決して彼を溺らせたり立往生をさせたりはしない。彼女は、自分の足にそんな重宝なものがついていないことを見出した。それ故、彼の行く道を跟《つ》いて行こうとすると、あがきがつかない程、ずぶりずぶりと潜り込む。最後の目当ては一つとしても、さよは、自分の道具がついていない足にかなう路をさぐり出さなければならないのを感じた。これが無形な心の問題であるだけ、良人は、彼女がもう二進三進《にっちもさっち》も行かなくなって、泣きかけで佇んでいるのを知らなかった。彼女がよしそれを訴えたとしても、かんじきのある彼は、彼女がそれを持たないことを思わず「そんなことがあるものか。来る気さえあれば来られるのだ」と云うだろう。
「だって駄目よ、私には駄目なのよ」と云っても、さよは、良人に出して示すべきものは、手近かな視覚に訴えることの出来ない、形象のない、自分の生れつきであるのを侘しく、途方にくれて感じたのであった。
入梅前のせいか、よく半透明な白い磨硝子を張りつめたように明るい空から、光った細い雨が、微かな音を青葉に濯いで降った。さよが、椅子の腕木に頬杖をついて眺めると、古風に松の下に置かれた巨い庭石の囲りに、濃茶をかけたような青苔が蒸していた。天から、軽く絶え間なく繰りおろす細い雨脚は、苔の面に触れたかと思うとすっと消える。後から来たのも、すっと消える。いくらでも、いくらでも、青苔は凝っと動かず降る程の六月の昼の雨を吸い込んで行く。――
見守っているうちに、さよの瞳がだんだんうるんで来た。涙が蓮の葉の露のように藤色のセルの胸をころがり落ちた。彼女は、自分達が何のために、何を目当てにその日その日を一つ屋根の下で生きて行くのかと思った。保夫は、外側からだけ見れば、疑いもなく毎朝出掛けて行くべき役所と、判を押す書類と、ふかすべきウェストミンスタを持っていた。けれども、しんのしんの生きる目的、意味と思うものはどこに持っているのだろう。それ等の一つ一つに小分けにこめられているのか。または、釜しきか何かのように、そういう外廓だけは如何にも確り、ちゃんと出来ているが、中心はすぽ抜けなのではなかろうか。自分は、彼との生活のどこに安心し倚《よ》りかかる場所を見つけられるのだろう。……
或る考えに脅かされ、さよは殆ど椅子から立ち上りそうにし
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