話して行った。自分自身の生活に対する希望や予想に就てでなければ、知人の結婚生活の成功、失敗等について、そして、一々の文句の句点のように、彼は「君達はいいさ。申し分なしだろう」とか、「何にしろ以心伝心だからな」とつけ足した。停車場で別れる時、彼は改札口を半分プラットフォームに出ながら体を捩って彼等の方を振向き、呼びかけた。
「この次来る迄に頼むよ。見つけて置いてくれ給え」
 樫と栗の生垣に沿って曲ると、道は、両端に雑草の茂った田舎道になった。左側にはとろとろ月に輝いて流れる溝川があった。右手には、畦の低い耕地が、処々に杉森で遮られ、一面の燦く透明な靄のような月の光に覆われている。聖者の円光のように遙かな暈をもった月は、いよいよ彼等に近く見えた。一つの星はますますキラキラと美しく閃く。保夫は、こんなに夜が生命に満ち溢れているのに、あの友達が独りで麦酒《ビール》に酔って帰るのが哀れだという風に呟いた。
「本当に誰かないものかな。――君の友達なんか大勢あるんだろうのに……戯談《じょうだん》らしく云ってはいるが本気なんだよ、山岡のは――」
 さよは、ぼんやり答えた。
「そうね」
 保夫は、黙り込んだ。口笛を鳴らす気にもなれないほど、四辺の景色は静かで、夢のようである。さよは、草履の足元にまるで気をつけず、光の裡を泳ぐようにして歩きながら、頻りに一つことを思った。彼女の心は、山岡が面白そうに幾度も繰り返して云った以心伝心という言葉のまわりを、丹念に廻っているのであった。
 全くそう云われて見ると、自分達の生活にはそんなことが少くない。さよは、つい先日のオゥトミイルのことを思い出した。あのことのみならず、日常のこまごました用件は大抵のとき、二言三言の受け渡しですぐ片づけられている。その二言三言も、言葉としては決して完全なものでない。ほんの心持を仄めかすだけの役目しかつとめないのだが、何方かでそれこそ「工合よく」補充し、直覚したことは大した行違いもなく運ばれて来ているのだ。――さよは、考えていくと、今日といい明日という太陽が、互に交錯し反響し調和しつつ流れて行く二つの心の河の上に、出たり沈んだりするように思われた。自分達の生活の実体が、一緒に食事をしたり、散歩したり、眠ったりする形象のもう一重奥に在るらしい神秘的な心持にさえなる。彼女は、まるで言葉というものがなくなった時の自分達はどうであろうかと思った。自分の直覚はどの程度まで真実なものだろう。また、良人は、彼の心の眼で、自分の心のどの辺までを見とおし、同じ感情や意慾を反射するだろうか。
 さよは、これまで持たなかった自覚を以て、深く深く自分と良人との心の風景を跋渉して見たく思い始めた。云いかえると、今まで我知らず勢にのって流されて来た二つの心の河の河底まで潜って、満干の有様、淀の在場所、渦の工合を目のあたり見たら、と思い出したのであった。
 月の光に馴れたさよの瞳に、戻りついた家の電燈の色がひどく赤黄く、暑く、澱んで見えた。
 保夫は、
「家へ入るといやに蒸すね」
と、ひやした麦湯を所望した。さよは、盆にのせてそれを良人にすすめ、彼が仰向いてすっかりコップを空にする様子を見守った。彼女はひとりでに微笑んだ。彼女は、良人の知らない心の望楼を、今夜のうちに拵えた。そこの覗き穴から見ると、麦湯を呑みながら彼の心が何と呟いているか、はっきり判るように思ったからであった。然し、保夫が、
「何? 何を笑っているの」
と尋ねると、彼女は子供が玩具をかくすように、新しい計画を心の奥にたくしこんだ。そして、猜《ずる》く、嬉しそうに、黙って頭を振り眼の裡で笑った。

        三

 保夫の側から見ると、さよは近頃特に濃やかに気の利く妻となって来た。
 彼女は、一つでも、未だ口に出して云われない彼の希望や要求を察して、仕とげたのを発見すると、ひどく忻《よろこ》んだ。普通妻が、良人の満足を見て自分も好い心持になるという以上のものが、さよにはあった。彼女にとって、そのことが出来たのは――保夫が、
「ほう、あるね。実はもうそろそろ買って来なければいけないと思っていたんだが」と、新しいオー・ド・コローンの瓶を手にとるのを見るのは――つまり自分の感じが間違ってはいなかった証拠であった。さよはそこから二重の嬉しさを得たのである。
 時によると、また、彼女は何か云い出そうとする保夫の口先を、
「あ、一寸待って。云わないで、云わないで」と、あわてて遮ることがあった。夕飯後、彼等は定って八時頃まで雑談した。夕暮の気持よい日には縁側に並んで腰をかけたり、庭をぶらついたりしながら。――そういう時、話の続きを中絶させて、さよは熱心に、
「あ! 一寸待って」
を叫ぶのであった。保夫は、兵児帯の後に両手をさし込んだまま、訝しそうに
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