て生れて来た人のように思えた。かんじきは、どんな深い雪の上を歩いても、決して彼を溺らせたり立往生をさせたりはしない。彼女は、自分の足にそんな重宝なものがついていないことを見出した。それ故、彼の行く道を跟《つ》いて行こうとすると、あがきがつかない程、ずぶりずぶりと潜り込む。最後の目当ては一つとしても、さよは、自分の道具がついていない足にかなう路をさぐり出さなければならないのを感じた。これが無形な心の問題であるだけ、良人は、彼女がもう二進三進《にっちもさっち》も行かなくなって、泣きかけで佇んでいるのを知らなかった。彼女がよしそれを訴えたとしても、かんじきのある彼は、彼女がそれを持たないことを思わず「そんなことがあるものか。来る気さえあれば来られるのだ」と云うだろう。
「だって駄目よ、私には駄目なのよ」と云っても、さよは、良人に出して示すべきものは、手近かな視覚に訴えることの出来ない、形象のない、自分の生れつきであるのを侘しく、途方にくれて感じたのであった。
 入梅前のせいか、よく半透明な白い磨硝子を張りつめたように明るい空から、光った細い雨が、微かな音を青葉に濯いで降った。さよが、椅子の腕木に頬杖をついて眺めると、古風に松の下に置かれた巨い庭石の囲りに、濃茶をかけたような青苔が蒸していた。天から、軽く絶え間なく繰りおろす細い雨脚は、苔の面に触れたかと思うとすっと消える。後から来たのも、すっと消える。いくらでも、いくらでも、青苔は凝っと動かず降る程の六月の昼の雨を吸い込んで行く。――
 見守っているうちに、さよの瞳がだんだんうるんで来た。涙が蓮の葉の露のように藤色のセルの胸をころがり落ちた。彼女は、自分達が何のために、何を目当てにその日その日を一つ屋根の下で生きて行くのかと思った。保夫は、外側からだけ見れば、疑いもなく毎朝出掛けて行くべき役所と、判を押す書類と、ふかすべきウェストミンスタを持っていた。けれども、しんのしんの生きる目的、意味と思うものはどこに持っているのだろう。それ等の一つ一つに小分けにこめられているのか。または、釜しきか何かのように、そういう外廓だけは如何にも確り、ちゃんと出来ているが、中心はすぽ抜けなのではなかろうか。自分は、彼との生活のどこに安心し倚《よ》りかかる場所を見つけられるのだろう。……
 或る考えに脅かされ、さよは殆ど椅子から立ち上りそうにし
前へ 次へ
全19ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング