いで波だった。きょうの若い少女たち――女性は「伸子」よりははるかに前進した社会性と、自分を生かす可能をもっている。それにもかかわらず、日本の家、家庭、夫と妻の関係の現実の大部分には、なお彼女たちに「伸子」をひとごとと思わせない苦悩の要素が実在している。そうではあるが、それが二十五歳だった「伸子」によってではなく、十六七歳の若い女性によって自覚され、そこに抵抗と発展が準備されつつあるという現実は、作者に限りないいとしさと勇気とを与えた。
一九四六年か七年に福田恆存が、ある文学を卒業する必要について若い女性へ語る文章をかいたことがあった。福田恆存は、宮本百合子の文学を早く卒業してしまうように、と忠告していたのだった。一つの社会が、ある文学を卒業する[#「卒業する」に傍点]という場合、それは、どういう状態をさすのだろう。ある読者の人生経験の角度が、ある作家の人生と文学の角度とくいちがって来て、そこに共感が失われるという事実はしばしば起り得る。けれどもこの場合は、一つの社会が、ある文学を生きこしてしまったこと――卒業したことにはならない。「伸子」を書いたのち、一九三〇年の中頃から、私は、机の上において、何となしその頁をひらいて数行をよむことで創作への熱心を刺戟されるような文学を見出せなくなって、途方にくれた。けれどもこの経験は、日本の社会の現実認識の方法と文学評価が、全体として志賀直哉の文学を卒業した、という事実を語ることでないのは明らかである。「アンナ・カレーニナ」の悲劇がほんとうに卒業された文学[#「卒業された文学」に傍点]になった、ということは、その社会に新しい人間性の全基準が生れ、新しいモラルのなりたつ社会的条件が確立した場合にだけ云われる。しかも、外部的にそういう社会条件がなり立ったばかりでなく、そのように新しくなった社会の成員の感情の内部までも、新しい発展に立つようになったとき、はじめて、「アンナ・カレーニナ」は一つの社会によって卒業された文学と云えるのである。
ソヴェトの男女は、アンナ・カレーニナの悲劇のうちに[#「うちに」に傍点]生きてはいない。それだのに、どうして、芸術座はアンナ・カレーニナを上演し、名優タラーソヴァの演技は、世界の観客をうつのだろう。タラーソヴァと芸術座の演出者は、こんにち地球にのこっている資本主義の社会の上流[#「上流」に傍点]で、アンナ・カレーニナの悲劇が生きられていることを歴史的・人間的悲劇と腐敗の現実として、しんからつかんでいて、云ってみれば、トルストイ自身が自然発生的な批判とそのリアリズムで描き出した社会的モメントを、一そう明確にして、それにたいしてより高次元のヒューマニティがたたかうべきものと認識した客観性で演出しているからである。
一つの社会が、ある文学を生き越しきる、卒業する、ということは、社会史上の事業に属する。文学者は、この複雑で長い期間に亙る発展の見とおしに即して、自身の文学が、やがて真に生きこされ得る時代をもたらすようにと尽力する。社会主義リアリズムの方法は見とおしの長い方法であるはずだ。曲折にたえて、社会と個人の相互関係については、動的で柔軟な見とおしに立たなければならない必然が、こういうところからも説明されると思う。
「伸子」の批判的――と云っても主として被抑圧的な者の立場からの照明を与えられている――リアリズムの方法によって、「二つの庭」を書けない。わたしとしては、過去のプロレタリア・リアリズムが主張した階級対立に重点をおいた枠のある方法では、階級意識のまだきわめて薄弱な女主人公の全面を、その崩壊の端緒をあらわしている中流的環境とともに掬いあげ切れない。佐々という中流層の家庭の崩壊過程は、歴史の一典型として映っている。その下から、自然発生的に、やがては次第に意識的に、次代のジェネレーションに生きついでゆこうとする要素と、同じ環境から生い立って、その善意のすべてにかかわらず様々の道をとおって壊滅を辿らなければならない者と、それらも大なり小なりの典型として描き出そうと欲する。このような実験は、現在のわれわれとして社会主義的なリアリズムによるしかないと思われる。作者がこんにち立っている地点から、網がなげられるしかないのである。
ところで、わたしには問題があった。社会主義リアリズムの方法は自身の経験のうちで意識して試みられた例に乏しいばかりか、一般にその方法の機能《ファンクション》について、更にその機能の細部について、まだ見きわめられていない。大まかに、社会と人間の有機的な諸関係をその歴史の積極な方向――社会主義の展望において描き出す、という規定を土台としているだけである。プロレタリア文学の時代、その最後の段階で、「前衛の目をもって描け」と云われたことは、社会主義リアリ
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