――社会主義的リアリズムについて考えている作家は、スタインベックがソヴェトの人々の合理主義を扱ったああいう風にそれを扱おうとはしないだろう。そして、社会主義の社会の住民として「攻撃を受けて自分自身を守り通した小さい人々」の人間価値を評価し、彼ほど衷心から戦争の犯罪性を指摘するなら、人民階級の独裁ということと、金と権力をひっくるめて独占するということとの間にあるちがいについても学ぼうとするだろう。――これはもとより、わたしが「道標」の前半を、どのように書くことができているか、ということについての弁明ではない。「道標」前半におけるモスクワと伸子との相互関係は、伸子がまだそこにある社会生活を総括して政治的なその根元からつかめず、次々に接触する事物からの感銘や批判を摂取して目に見えず内面変革にすすんでゆく、その段階においてとらえられているのである。拙劣に扱われているかもしれないが、伸子とモスクワ生活との関係で、主体と方向は失われていない。

          四

 新心理主義の方法は、現代社会のコンプレックスを超現実の手法をもかりてコンプレックスなりに再現しようとしたのではなかったろうか。
 文学にあっては、あることが表現しにくい、と表現するにさえ、つまりは表現の力をかりなければならない。文学として表現されたとき、真の人間不信はあり得ないと思う。なぜなら既に表現するということが、理解を予想しているのだから。
 わたしの心理に近代的コンプレックスが見られないということが、あき足りなさとしてしばしば云われる。或いはいくらか嘲弄的にもふれられる。ある読者からフロイドをどう考えるか、という質問もあった。
 わたしの生活と文学との通って来た特別な道行きをさかのぼってみると、わたしは、常にコンプレックスを解く方向[#「解く方向」に傍点]へ努力しつづけて来た人間であった。互に押しへだてられて生活した十二年間に、夫と妻であるわたしたちは、当時の不自然きわまる個人的・社会的条件――コンプレックスそのものである日々の中で、あらゆる機会と表現をとらえて可能なかぎり互のコンプレックスを解放する努力をつづけて来た。ひずんでしまわないために、偏執にひからびないために。
 そういう事情があったばかりでなく、わたしは、コンプレックスを解こうとしずにいられないたち[#「たち」に傍点]かもしれない。日本の社会は、どっちを向いても、あんまりコンプレックスが多すぎる。こんにちでは、昔ながらの日本のコンプレックスが解かれきっていない上に舶来のファクターが重って来て、日本の知性、良心のコンプレックスは実に圧の高いものになった。
 第一次大戦から第二次大戦までの文学に、フロイドが与えた影響は非常に広汎であったと思う。そして、現在でも、フロイドが人間性の自然な解放のために、その心理的、潜在意識的モメントとしてとらえた主として性のコンプレックスは、社会と、個人の精神のうちに存在していることも明かである。だけれども、一方最近の数年間に、世界の市民的な生活感覚に潜在するコンプレックスは、フロイドの時代からみれば比較にならないほど、その複合の要素を複雑にして来ているというのも、現実だろうと思う。第一次大戦の社会混乱と過去の秩序の崩壊につれて、とくに婦人にとって因習的であった性に関する意識の抑圧が、堪えがたい精神圧迫となった時期、フロイドの方法は、明かに一種の解放手段として役立った。
 第二次大戦が火をふきはじめた時、近代人がより深く潜在意識の裡に生きているとして、そのような創作の方法にしたがっていた心理主義の婦人作家ヴァージニア・ウルフが、イギリスで、彼女の住居の近くの川に身を投げて死んだ。六十歳を越していた彼女が、世界よ、さようなら、と書きのこして訣別した「世界」は、潜在意識の世界[#「世界」に傍点]だったろうか。わたしには、そう考えられなかった。
 性に関するコンプレックスだけとりあげてみても、それは第二次大戦の時期を通じて、われわれの意識のなかに「コンプレックス」として意識されるものになって来ているし、そのコンプレックスは、ドイツの若い婦人に対してヒトラーの政府が利用したようなものとしてあらせてはならないし、日本軍隊の婦女暴行としてくりかえされてもならないという意識も、明瞭に意識されて来ている。したがって、こんにちフロイドの精神分析をうけつぐ人があるならば、そのひとは、第二次大戦後、性コンプレックスは、その複合体のうちにどれほど多量の経済、政治上の要因をふくんで膨脹して来たか、を見ずにいないであろう。そして、その人も、おそらくは、わたしたちの常識がそうみとめているように、コンプレックスについて語るとき、フロイド流に性意識の圧迫にだけ重点をおくことは、現実におくれていることを発見す
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