「いやんなっちまう、せっかく行こうと思えば」
[#ここで字下げ終わり]
うらめしそうにその字をにらみながら千世子は迷った様な様子をして立って居た。
[#ここから1字下げ]
「止めよう、こんな気持で行ったって何が出来るんだ」
[#ここで字下げ終わり]
なげつけた様に云って又西洋間にもどった。歩きながら、
[#ここから1字下げ]
「阿母さんが、『お前はいくじなしだよ、ほんとうに一寸も我まんがない』っておっしゃるだろう」
[#ここで字下げ終わり]
こんな事を思って妙な笑い方をした。
Hのわきに腰をかけて何のわだかまりもない様にスースーと引けて行く線を一日中見て居た。出がけに父親が、
[#ここから1字下げ]
「人間は頭だって……しっかりせんけりゃあいけない、体を大切にするんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
と云いながら千世子の頭をかかえた事がいつもの事でありながら千世子にはやたらに思い出された。
何となく気弱な様な自分の心を引きたたせ様引きたたせ様と千世子は骨を折った。
その日は話のたねのつきた様に目黒行の事ばっかり云って居た。
[#ここから1字下げ]
「又いかないんかい、いけないじゃあないか」
[#ここで字下げ終わり]
と云おうとした母親は千世子の眼が感情のおだやかでない時に起る一種わけもわからないするどい光りをもって居るのを見て、早くねろ早くねろと暮れ方からすすめて居た。
(七)[#「(七)」は縦中横]
日曜日はかなりの天気で千世子は健康らしいかお色をして居た。
千世子は何をするんでも三人と云うかずはすきでなかった。二人がはなしをすれば一人がぽかんとして居なければならないキットすきが出来る。そんな事を思って居る千世子は今日三人で行くと云う事もあんまりこのましくなかった。
[#ここから1字下げ]
「誰かも一人行く人はないだろうか、若し場所をかえてならという人があれば少し位のところならかえても好いから四人になりたい」
[#ここで字下げ終わり]
とまで云った居た。それだけ千世子は大好きなものずくめななりをして出かけた。田端の停車場に行く間幾度も幾度も空を見上げてHは、
[#ここから1字下げ]
「いい日ですネエ、歩くのにつり合ってますネエ」
[#ここで字下げ終わり]
といかにも気に入ったらしい口つきで云って居た。
千世子はいつもほどしゃべらないで白い足袋のつまさきで小石をけとばしたり、Hのかるそうな洋服すがたと源さんのマントを着た大きな影をちょいちょい見くらべたりなんかして歩いた。
割合に山の手はすいて居たけれども真向いに居る一人は二十五六の、も一人は二十位の女が悪ずれした目つきをして二人の間にはさまれてツンとして居る千世子の風の変った髪やじみはでな着物の着こなし方なんかをわざわざきこえる様に批評するのが気にさわってたまらなかった。千世子は「何がたか……」と思い上った様な目つきをしていかにも矢場女らしい鼻ぴくなかっちまりのない顔をジーッと見つめた。
向うの女も始めは、
[#ここから1字下げ]
「何だ! 生意気な世間知らずのくせに!」
[#ここで字下げ終わり]
と云った様に見返して居たけれ共、千世子の神経的な目を見つめて居られなくなってフッとわきを向いてつれと顔を見合わせた。千世子は勝ちほこった様にうす笑いをして肩をゆすった。
[#ここから1字下げ]
「どうしたの? かんしゃくを起した様な」
[#ここで字下げ終わり]
Hは源さんとして居た話をやめて千世子にきいた。
[#ここから1字下げ]
「かんしゃくを起した? ――なんでもありゃしない、こんな好い日なんですもの」
[#ここで字下げ終わり]
千世子はうれしそうな笑い方をしてHのかおをしげしげと始めて会った人の様にして見た。袖を内ショ話をする時の様にHがひっぱった。その時の気分で千世子は濃い甘ったるい様な、うそにしてもそうした言葉をHの丸い声で云って貰いたかった。内気な小娘のする様に千世子は首をかしげた。
[#ここから1字下げ]
「一寸! 前に立って居る男を!」
[#ここで字下げ終わり]
すばしっこい目つきをして前に立ちはだかって居る男を見上げた。
荒い縞の背広を着てあくどい色のネクタイをいかにもとっつけた調子に結んで居た。
ニキビの一っぱい出た油ぎってニチャニチャする様な二十五六の男だった。
上から三つ目の貝ボタンの根にきりきりといたいたしく女の髪が巻きついて居た。
そのわきに話して居るまだ十七八の小僧にさえ千世子は眉をぴりッと動かして、落ちついた眼色でいかにも下等らしく見える男をにらんだ。いつまで立っても二人の男は何か意味のありそうな下びた笑いをやめなかった。
[#ここから1字下げ]
「何て見っともないんだろう」
[#ここで字下げ終
前へ
次へ
全48ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング