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「ねえHさん、主人《うち》でそう云ってましたけどいそがしくもなるし、夜更けて行ったり来たりするのもなんだからどうせ一ヵ月か二ヵ月の事だからとまったっきりでいらっしゃる方がいいって云ってましたっけが、私もそれが好いって云ったんですよ。――それでいいでしょう?」
「そうですか、でも御世話さんでしょう、私まで……」
「そんな事があるもんですか、ネ? そうなさいもうそうきめてしまいますよ」
「そんならそうしていただきましょう、御気の毒ですけれ共……」
「エエ、エエ、かまいませんとも」
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 千世子の知らない内に父親がそんな事を云って居たと見えてその日っからHはとまりっきりになる事になった。
 千世子は何となくくすぐったい様な気持がしながらその話をきいて居た。

        (三)[#「(三)」は縦中横]

 次の日も次の日もHと千世子はその日と同じ様な事をして暮した。議論で一日つぶしよみつぶしかきつぶしたりして十二月一ぱいをくらしてしまった。
 暮に近くなっての日Hは千世子にこんな事を云った。
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「ネエ独りものは可哀そうじゃありませんか、お正月の着物の心配も御自分様がなさらなけりゃあして呉れる人がないんだもの」
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 眼尻にしわをよせながら聞いて居た千世子は原稿紙の上にまっかなペン軸をころがしながら云った。
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「ほんとうに御気の毒、今年はうちの阿母さんに見てもらえばいいじゃありませんか、それに又わざわざ男だもの作らずともすむでしょう?」
「だって仕立上ったばっかりの着物のしつけをとるのもいかにも新らしい気持がするこってすもの――私みたいな男でもかなり細っかい感情をもってましょう?」
「わりにね、でも興津に帰れば阿母さんがいらっしゃるんだもの……」
「これが一かたついたら一寸行ってきましょう、樗牛のお墓に行ってきますよキット、葉書あげましょうネ!」
「なぜ葉書っておかぎりになったんだか下らない事に気がねしていらっしゃる。どうせ私になんか御かまいなしで阿母さんがあけて見るんだから手紙だって葉書だって同じじゃありませんか」
「ほんとうにねエ、よその母親より厳格で神経質ですネ」
「エエ、エエ、そりゃあもうまるで定規とコンパスで一辺の長さって云った様な感情をもって居る人ですもの、それで又手紙とか電話とかにやたらにおそれて居る人なんですもの……」
「とにかくだれが見てもあなたとあべこべな感情だと云う事はたしかですネ。貴方が好いとも阿母さんが悪いとも云えないサ、そう云う性分なんだから……」
「感情のぶつかりなんて母親と娘の間にあんまりない筈のものなんですけれ共ネ、私がつい気ままなんで時にはじまる事さえあるんですものネエ」
「でもマア、一つのつとめとして貴方は阿母さんにおとなしくして居なくっちゃあいけませんよ……女としちゃあかなりの学問もあり常識も発達して居なさるんだから」
「エエそれは知ってますけれ共……人の前で自分の感情に仮面をかぶせてちぢこまって居る事は出来ないんですもの人のために生れた感情じゃないんですもの私のものですもん」
「何にも感情を押しつつんでどうのこうのって云うんじゃあないんですけれ共、子供の一挙一動によろこんだり悲しんだりして居る親を安心させるためにしなくっちゃあならない事と思ってたらいいじゃありませんか……」
「私自分にもそう思ってつとめる事があります。でもフイとした感情につつかれて『マア阿母さんの耳たぶがきれいだ、そりゃあよくすき通った色で』なんて云う事があるとしましょう、そうするとすぐ『ろくでもない事を云うのは御やめ気違いみたいじゃないか』って云われるんですもの、フックリした気持になって居る時そう云う事を云われると、美くしく化粧した舞台がおのきれいなかぶりものをかぶって居るとんだりはねたりが一寸松やにから竹がはなれるともんどりうってかぶりもののとれた下から白っぱげた役者の素がおが出ると同じ事にネ。自分でどうしようもなくなってしまうんですワ、そうなってしまうと……」
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 千世子はあきらめた様な口調に云って白い紙の上に線を引く事をやめないHを見て又ペンをにぎった。
 しばらくすると母親が、
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「御精が出る事、一寸しゃべりませんかもうじきお茶が出ますよ」
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と云って入って来た。千世子は一寸ふりかえって笑って居るはぐきの色のわるいのと前髪のしんののぞいて居るのを見てたまらなくきたないものを見せられた様な気になって一寸まゆをひそめて又紙に目を落した。
 うしろの方で新しい女の事を論じて居る母親の声がいやに耳ざわりになってたまらなくって「おやめ」と云わ
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